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『科学とは』の謎。

数日前に日経を読んでいて、ちょっと気になったのが、こちらの記事。

記事の中には、

「科学とは何か」

という問いに対して、明確な答えがありませんでした。
わたしは、あえて引用するなら、この部分かなと思いました。

「何が真実かを確かめる」

主なアプローチは、記事の言葉を借りれば、こんな感じになるでしょう。

①実証性:観察や実験から得られた証拠に基づいて真偽が決定される。
②再現性:同じ条件で何度繰り返しても同じ結果が得られる。

そして、忘れてはならないのが、この前提条件。

⓪暫定性:定説とされる理論や法則も新しい発見があれば覆される可能性があり、
     「正しさ」は当面のものである。

この記事の何が気になったのか。それは、

「科学」と「Science」では、イメージが違いすぎるのではないか?

ということ。

「理論と証拠に基づき物事を予測したり、制御したりすること」

英語であれば、この前半部分の<予測>までが「Science(科学)」の範疇で、後半の<制御>は「Technology(応用・技術)」になると思います。

日本語では、どうもこの2つの言葉がゴチャ混ぜの印象なのですが、英語では、ScienceTechnology は、理論と応用技術。あきらかに別物なのです。

それはなぜか。

Scienceサイエンス とは、そもそもラテン語で「知る」を表す scio が語源。
宇宙を司る<真理>を知るための学問です。「世界はどのような法則で成り立っているのか」を解き明かすために、森羅万象を観察し、実験を繰り返します。

一方、Technologyテクノロジー はギリシア語で「」や「人為」を表す tekhnē が語源。
Science によって明らかになった<真理>を応用するための技術開発の学問です。

海外(少なくとも西洋)では、<真理探究><技術開発>は一対をなす別々の活動とみなされています。そこが日本と大きく異なるのです。

また、この記事では科学理数系を結びつけて論じられていますが、本来「Scienceサイエンス(科学)」には「人文科学」「社会科学」など、文系の学問分野も含まれます。文系の学問にも<真理探究>という特徴はあるのです。

さらに、冒頭に述べた科学的なアプローチは、海外では「学問」ではなく日々の生活にも密着しています。

⓪暫定性:定説とされる理論や法則も新しい発見があれば覆される可能性があり、
     「正しさ」は当面のものである。
①実証性:観察や実験から得られた証拠に基づいて真偽が決定される。
②再現性:同じ条件で何度繰り返しても同じ結果が得られる。

それは、たとえばこんな記事からも伺い知ることができます。

この記事の中の、下記太字部分は、まさに「科学的アプローチ」そのものです。

ジャシー氏はメッセージの中で「我々のような規模の会社では、すべてのチームが最適に機能する万能のアプローチはない」と説明。「しばらくの間、実験と学習、調整の段階に入る」と述べ、職場ごとに在宅か出社、または両者を組み合わせた働き方を選べるようにすると明らかにした。

英語では、このような記事になっていました。

該当箇所は、以下太字の部分です。

The director of each team will decide when and how frequently employees would need to be in the office, if at all. “We’re going to be in a stage of experimenting, learning and adjusting for a while as we emerge from this pandemic,” Mr. Jassy wrote.

元ネタは、アマゾンのこちらの発表です。

該当部分は、こちらです。

First, none of us know the definitive answers to these questions, especially long term. Second, at a company of our size, there is no one-size-fits-all approach for how every team works best. And third, we’re going to be in a stage of experimenting, learning, and adjusting for a while as we emerge from this pandemic. All of this led us to change course a bit.

この発表の中の「one-size-fits-all approach for how every team works best」の部分が、「何が真実か」という最適解(真理)を指しています。会社経営において、マネジメント層は明確に「科学的アプローチ」に基づいた判断を行っており、それを社内外にもしっかりと発信しているのです。

日本の「科学 ≒ 理数系」という思い込みは、世界の「Scienceサイエンス ≒ (何が真実なのかを観察や実験を通じて)知る活動」という定義とかけ離れています。

ですから、

「科学を学習することは、すべての人にとって大切である」

という質問から日本人が受ける印象と、

「Science を学習することは、すべての人にとって大切である」

という質問から海外の人が受ける印象は、かなり違うと予想されるのです。

もしかすると、この「言葉」の持つイメージの違いが、

算数・数学科学に対する姿勢」

という実験結果に多少なりとも影響を及ぼしているのではないか。
わたしにはそんな側面があるような気がしてなりません。

ところで、先日梅棹忠夫さんの『文明学の構築のために』(中央公論社)という本を読みました。その中に、こんな言葉があったので、ご紹介しておきます。

われわれ人類のおかれている状況を基本的に解釈しなおすためには、もう一ペん、きわめてドライに、危機感などからはなれた、知的好奇心の対象としての文明というものを、とらえなおさないかんのやないか。危機感だけで議論しているとますます危機にさしかかる。(中略)危機意識から直接やったらいかん。ショートカットをしようとすると、あっちこっち部分的な欠陥いじりになるわけです。

しかしわれわれは学者です。学者の役割というものは、おのずから違う。深いところへ沈潜ちんせんして、宇宙の理法のところまで沈んで考えるのが役目じゃないか。

理法が出てくるとぼくは思っています。(中略)原理探究がまっしぐらにいくとは決して思わない。ある程度、原理探究が進んでおれば、ばかげている方策は、これはあかんと捨てられる。こういう尺度というか、原理をつくっておくのがわたしらの役じゃないでしょうか。

理科や算数にかぎらず、暗記の学問ではなく、

「何が真実かを確かめる」

というのが本来の「科学」のあり方なのだとするならば、文系・理系の垣根を越えて、きっとすべての人にとって、日々の生活に密着した、とても楽しい知的活動になるのではないでしょうか。(もちろん、暗記も<大切な原理原則を知る>という上で大切な一要素ですが)

わたしにとっては、「語源」を学ぶこともその一つ。「語源」は英語で etymology と言います。これはギリシア語で「真の」を表す etymon が由来。「その言葉は本来何を意味していたのか」を確かめる、<真理の学問>のなのです。

英語と日本語の微妙な温度差に気づけるのは、語源のおかげ。

「何が真実かを確かめる」

それは、どんな分野でも、きっと楽しい活動なのだと信じています。

◆最終更新
2021年10月29日(金) 09:00 AM

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