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誰かを迎えにいく道の、かけがえのなさ [日記と短歌]23,2,1


手を振って大きく歩く晴れた日はすべての道が君に通じる/夏野ネコ


「一番好きな道は、帰り道です。」という広告のコピーがありました。確か三井かどこかの不動産デベロッパーのコマーシャルだったように思います。家族の待つ家に帰る道が好き。とても素敵な世界観ですよね。

その先に待っている誰かに通じている道は、歩いているだけで特別になる。私の場合「誰かを迎えにいく道のり」がとても好きです。
ちょうど先日、人を迎えに行く機会があって市の中心部まで散歩がてら5キロほどを歩きました。電車ではふた駅分の距離だけど、電車を使うより圧倒的に高い、「迎えにく」という行為の持つ尊さ、かけがえのなさに驚きました。ただ歩いているだけなのに、相手の待っている場所に通じる5キロの道程が、やたらと感動を伴うのです。
ちょっと変なんだろうか、私は。でもこれはなかなかの発見だった!

道というものは物理的な場所以上に概念としての意味にも重みがあります。「帰り道」という言葉も多義的に捉えることができるし、だからあの広告コピーは感動的だったのかもしれない。
でもその日私が感動して「道、すごい!」と思ってしまったのは、多分、だけど、リアルな道だったからじゃないだろうか。現実として、今歩いているこの道を辿っていくと大切な人がいる、という、フィジカルで確かな身体感覚の迫真性に感動したんだと、今ならそう思う。

この身体性というのは、どうも重要な気がしてきました。何って、短歌にとってです。「帰り道」のようなロジックで概念を語ることにより価値観を転換させる広告コピーの方法もあるけれど、歌はやっぱり、体から滲み出てくるような言葉じゃないとなぁ。

なんて!
そんなこと本当はどうでも良いのです。
大切な人を迎えに行った道のりにただ闇雲に感動して、そうしてきっと、同じ道を歩くたびあの日の気持ちを思い出すだろう予感までもが愛おしい、それだけでなんというか、嬉しくなってしまうんですよね。

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