言葉の選び方
先日、友人とあるやりとりをしていた時のこと。
学校の先生の表現の仕方が気になるという話だ。
自分はその先生と話していて、多少クセがあるなとは思うものの、そういう表現の仕方なのだろう、確かにうちの子にはそういう側面はある、と思ったのでそこまで気にはしなかったことが、友人は、なんでそんな言い方をするの、かなり悪い印象に聞こえるし、そういう風に子どもを見ているのかとショックを受けたような話をした。
子どものことだから、余計にショックなのかもそれないし、相手が先生だからもう少し言い方があるんじゃないかと思ったんだろうな、とこちらは受け取った。
そして、それほどそこまでショックを受けない自分が子どもに対して冷めているのか、はたまた先生の言うことに賛同しているから気にならないのかなどと、しばらくぐるぐる考えて(私にはそういう癖がある)、あぁ、私はそういう表現の仕方に耐性が結構あるから、流すというか、そういう言い方もするかもねと思えるんだなと、勝手に納得したのだった。
例えば、一番身近な母親が、私の容姿を残念だというような言い方をする人だ。
そこに悪意は無く、相手がどう感じるかも考えずに言うやつだ。
自分は不細工だと刷り込まれていくので、私は容姿に自信が無いし、美しい人を羨ましくも思う。
大人になり色んな人と接して経験を積んで、別にこの容姿が生活するのにものすごく悪影響を及ぼすわけでも無く、なんなら無害そうな外見でかなりの毒を吐くギャップで、相手がタジタジとなるような効果があるのを利用するくらいできればいいじゃん、とも思える。
割と普通そうに見えてディープな経験を積んできたこともあるので、冒頭の友人がショックを受けている様子を考えて、多分、そう言うネガティブな発言をされる経験があまりなくて、明るい人と接してきたからショックなんだろうなと考えた。
先生という職業に対して、こうあってほしいというポジティブなイメージが当てはまらないからショックなのかも、とも思ったり。
でもそれをそのまま友人に伝えたら、それはそれでまたショックを受けるだろうから、深追いせず、なんでそんな言い方するんだろうねぇ、と相槌を打つのにとどめておいた。
言葉には力があるから、必要以上に賞賛したり傷つけるような表現をするのは危険だ。
人類が獲得した一番厄介な文化は言葉で、文章だ。相手によって同じ言葉でも違う意味になるから、よく考えて発したほうがいい。
受け取る側にもある程度訓練が必要だろうけれど、必要に迫られて身につけるのと、必要がなくて訓練もなにもなくきたのとでは差があるかもしれない。
悩ましいなと思う。