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私を全力にさせるもの 3 〜「耳日曜(みみにちよう)」の没入感〜


「なつむ!!!!(怒)
 ご飯って言ってるでしょう!!
 何回言ったらわかるの!!
 いい加減にしなさい!!」

「!!??」
(母がものすごい勢いで怒っている……!)

私は慌てて、
昨日図書館から借りてきた本を
学習机に放り出すようにしまって
ダイニングへ向かった。

食卓を見て、あっ、と思う。

もう配膳がされていて、
あとは食べるだけになっている。

いつもなら、
食卓を片付け台布巾で拭いたり
茶碗や汁椀を食器棚から出して
台所へ持っていったり、
箸を並べたり、
よそわれたものを食卓へ運んだり、
というのがあるのだが。

それらが
全部綺麗に終わっていることに
私はバツの悪い思いで
食卓についた。

まだ母は怒っているようだ。

まいったなぁ。


・・・・・

今、私は、
ハナココロというコミュニティで
「全力人生アンバサダー」
という肩書き(仲間に創ってもらった)
で、イベントを開催している。

イベントの名前は
「仕事と人生を全力で楽しむあの手この手」笑

文字通り、
仕事も人生も全力で楽しんでいる私が
今までに身につけてきたあの手この手を、
ヒントとしてお渡しし体感していただく
ワーク付きセミナー型のイベントだ。

仕事も人生も全力で楽しむ。

その姿勢は
ここ数年で一気に加速しているものの、
短期間で培われたようなものではない。

なぜ、私は
いろんなことを全力でやろうとするんだろう。

いくつかの心当たりについて、
振り返っていく。

・・・・・

子どもの集中力

子どもの頃の、
興味を持ったことへの
集中力って……すごい。

あのエネルギー。

通常の時間の流れと
何か別のところへ行く。

周囲の世界と、
何かひとつ隔てた場所にいる感じ。

そういう体験をしたことは
あるだろうか。

読書の世界

子どものころ、
私は
「本を読んでいる時」が、
とくに顕著だったなと思う。

完全に、
その世界に入りこんでしまって。

まったく、この世の音が耳に入っていない。

呼ばれても、気づいてない。

みみ、にちよう(耳日曜)


母が、ご飯よ、と、呼ぶ。

肉体としてのわたしの
耳の中の鼓膜は
間違いなく、
母の声の音波によって震えたはず、だけれど、

そしてそれは
私の聴覚の神経によって
電気信号として運ばれて
脳に到達したはず、だけれども、

宿主の私は、
まるで
その音を、意に介していない。

いや、なんなら無意識では
「聞こえて」いるのだろう。

タチの悪いことに、
「うん」とか「ふん」とか
言葉にならない声で、返事だけはしているのだ。

いわゆる「生返事」というやつである。

そんなだから、
呼んだ母の方は
多少なりとも私が事態を認識していると
思っている。

「なつむ、ご飯よ」

「うん」


「なつむ、聞こえてる?
 ご飯よ」

「うん」



「なつむーー???
 ご飯食べへんの?」

「うん」

母が不審に思い
台所から覗くと、
まったく本を読む姿勢から
動かない私がいる。

かくして。

台所で私を呼んでいた母が、
ついに
私の机の横まで来て
叫ぶ。

「なつむ!!!!
 ご飯って言ってるでしょう!!
 何回言ったらわかるの!!
 いい加減にしなさい!!」


そこで初めて、
私は、
母が呼んでいると
意識に明確に登る。

本の世界から
現実に帰ってくるのだ。


母にしてみれば、
散々呼びかけた後に出た

「何回言ったらわかるの!」

である。

ただ、こちらにとっては

「え、まだ1回目……」

なのだ 笑


こんなとき、母はよく、

「あんたはほんまに、
 なんかし出したら
 "みみにちよう" なんやから!」

と言って怒っていた。

みみにちよう。
耳日曜。

耳が日曜、
耳が休んでいる、
耳が全く働いていない。


何かに集中して
周囲からの声をまるで
聞いていない状態

母はそう言った。

人の話を集中して聞いていない、
のではなく
(それはそれで怒られそうだが)

別のことに集中して、
声自体が
耳に入っていない状態。

そんなやりとりは一度二度ではない。
今となっては笑い話であるものの、
当時は毎回、だいぶ
怖くて気まずい思いをした。

考えてみると
そのやりとりが何度も何度も
繰り返されていたと言うことは、

母も、私も、
その事態から、
学んで行動を変えると言うことを
あまりしなかったらしい……。

耳日曜の没入感

何かを「全力で楽しむ」
と言った時

ふと、この「耳日曜」が、
意識をよぎった。

あの、感触。

あの、没入感。

そうだ、
私が何かを「全力で楽しむ」と言う時
その何割かには
この耳日曜 が絡んでいるんじゃないか。



外の世界の音が耳に入らないくらいの
呼ばれていて気づかないくらいの
集中。

時間の経過の感覚がなくなる、あの感じ。

その状態は、
私にとって

「楽しい」。

この世の楽しみ方、
時間の味わい方として、
結構、好きだなーと、思っている。


例えば、

仕事で、
できあがったらみんなに
「見てみてー!こんなの作ってみたよ!」
って言いたい、
いや、
言うだけじゃなく、
言ったら、
「おおー!いいね!」
と言ってもらいたい、
何かを、作っているとき。

例えば、

その価値が直接誰かに
伝わるでなくても、
これができあがると
みんなが楽になるんだ、
という改善を
考えているとき。

例えば
この仕事を自分以上の完璧さで
仕上げられる人はいない
という自負心をもって
目の前のことに打ち込んでいるとき。


時には、

今やらねば後がない仕事を
必死に間に合わせようと
しているときにも。 笑


そして

何かのエンターテインメントに
骨の髄までどっぷり浸かって
楽しんでいる瞬間。


それらはひとつひとつ
種類はちがうもしれないが
たしかに、
私にとって「楽しい」のだ。


全力で、何する?楽しむ!


耳日曜、は、
私は、
今まで実家の外では
聞いたことがないのだが、

一応、
一般的な用語ではあるらしい。
(ググった。何かしら出てくる。)

人に文章で
説明しようとしたのは
初めてかもしれないが
(少なくとも幡中家での用法の範囲で)
イメージは、伝わっただろうか。

そして、
あなたの経験の中に

周囲の音がまるで耳に入らないくらい
何かに集中した瞬間があるだろうか。

あれば、

その感覚を思い出してみてほしい。

「夢中」と、同じかもしれない。


私の中では、その感覚は
「楽しい」の一種なのだけれど、
どうかしら。

生活の中に
人生の中に

そういう時間を
どのくらい持てるか。


そんな視点でも、
人生を全力で、
楽しみたいと思う。


「耳日曜」

久しぶりに思い出したのだけれど、

子どもの頃から
自分の身にしっくりと馴染む
「楽しい」感覚の一つとして、

これからも大切にしていきたいな
と思った、
今回の振り返りでした。



今日も読んでくださって
ありがとうございました。

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