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ポモドーロで時を味わう♪

こんにちは。なつむです。

台風さんで引きこもりになった1日、作業時間管理で有名な「ポモドーロ・テクニック」で、時間の流れを味わって、暮らしてみました。

その顛末をご報告します。


休みの日は、気がつくと夜


今回のこと、やってみようと思ったきっかけは、休みの日の過ごし方の課題感でした。

お休みの日、時間がたっぷりある気がするのに、だいたい、「気がつくと夜」。これを読んでくださっているあなたも、そんなこと、ありませんか?

そう、別に寝ていたわけではないのです。なんなら、1日中、仕事の日と変わらないくらい、PCの前に座っていたというのに思ったほど何も進んでいない。(普段からPC使うお仕事をしています)
「あぁ、あれも、これも、今日やろう、今日できるかなって思っていたのに、あっちもこっちも手つかずのまま、今日が終わっていく。」
今までも割とよくそういうことを繰り返してきて、どうにかならないものかなと思っていました。



いつまで経っても見積もれないという病


そもそもを考えていくと出てくるのが、「自分が何をするのに、どのくらいの時間がかかるのか」ということに、自分は、あまりにも無頓着で、あまりにも無知だな、ということです。

これは、会社員としてプロジェクトで仕事をしていて本当に致命的なのですが、社会人を15年やっていて相変わらずです。
職場でも、システム開発の仕事(私自身はプログラミングや開発はできません・担当していませんが、関係者が周りにいる環境です)を中心に、よく、工数が見積もれていない、工数の見積もりを超える、ということが問題視されます。
「時は金なり」は本来違う意味の言葉ですが、「どのような作業に、単価どのくらいの人が、何時間使って仕事をするのか」と言うのは、知識創造系の産業においてはまさにプロジェクトの最大の原価になり、そういう意味でもまさに「時は金なり」はその通りで、大事な問題です。
ただ、見積もりの正確性ということについては、そういった事に長けている方もいらっしゃる一方で、私と同じようにといっては失礼ですが、職歴の長短を問わず、苦手な方も一定いらっしゃるように感じます。

先程の、「お休みの日は気がついたら夜(一日が終わっている)」という感覚を持つ根源に、そもそも、どのくらいの時間があればどのくらいのことが進むのかということを自分でわかっていないがゆえに、到底こなし得ないことを自分に過剰に期待しているという矛盾があるのではないか、と、自分で自分を疑っていました。


時間を「刻み」たい

さっさと中身に入れと言われそうですがもう少しだけ能書きを。
それらの状況に加えて、最近、自分のビジョンについて色々考える機会があり、その中のキーワードとして、今日の題名にもある「時を味わう」という言葉が自分から出てきたのです。
「気がついたら夜」は、まさに味わえていない状況の象徴。時間は目に見えなくてどんどん流れていくものなので、まるっと全体を見ていてもどうにもならないだろうなと思いました。
友人が「時間を区切って振り返る」ということを習慣にしていて、生きることの意義や喜びを非常に感じていると話してくれたことも、頭の片隅にありました。
何かしら、時間を、刻む、区切る、それが有効そうだと考えました。


そうだ、ポモドーロ・テクニックを使おう


かくして、かの有名なポモドーロ・テクニックに思考がたどり着きます。
ポモドーロ・テクニックの解説は、必要でしょうか。
簡単に言うと25分の集中タイムと5分の休憩を繰り返すことで生産性を高めるという時間とタスクの管理手法です。


追わない・追われない、ポモドーロ

本来のポモドーロがどういうものかを私はあまり詳しくは知りません。ただ、会社でポモドーロ・テクニックで仕事をしてみるときは、「この25分でこれを終わらせる」という負荷を自分にかけます。
だから仕事が進む、という側面があると思います。友人にポモドーロの話をしたら、「時間を意識すると疲れる」という話をしてくれました。それはこのことを言ってくれているのだとわかりました。
追う、追われる、という感覚とポモドーロ・テクニックは強く結びついている印象が、私にもあります。

ただ、今回は違う使い方をしました。やる内容自体は「繰越上等」にしました。その時間内に終わらせることを目的としない。休憩明けたらまた続きをやればいいよ、と。何がなんでも終わらせよう、と、しない、で、どのくらいかかるのかを、見てみようということです。


過ぎゆく時間を感じてみる

何もしなければ、ただただときが流れていく。でも、ポモドーロを使えば、1周やれば30分、2周やれば1時間、時間が過ぎていくことを、刻みながら、認識することができる。その、時間の感じを、味わいたかったのです。

今日は、そのための、ポモドーロ・テクニック。


5分寝る

25分経った後の、休憩をどう過ごそうか、も、考えました。
トイレ休憩に使うというのは、なしにしました。笑
トイレは作業時間中にも行ってOK。
そして、5分の休憩は、寝ることにしました。
正確には、4分30秒。タイマーが鳴ってから、次のタイマーをセットするのに、多少のロスが出ます。25分の方はいじりたくなかったので、25分と4分30秒の設定を繰り返しました。
25分のタイマーが鳴ったら、布団に移動。最初は電気はつけっぱなしでしたが、途中からは電気も消しました。
だいたい、寝ている状態をタイマーに起こされたので、5分あれば入眠できていたようです。



やること互い違い

25分の中でやることについて、一つの企みを持ってやってみました。それは、同じ作業には、戻らない、ということ。ちょうど、家でやるべき家事もあったので、「身体的な活動(A)」と「頭脳中心の活動(B)」に分けて、互い違いに行うようにしました。例えば、

A:洗濯物を干して、5分寝て、
B:PCでCanvaのデザインの過去分の整理を始めて途中で25分、5分寝て、
A:別の乾いた方の洗濯物を畳んで、仕舞って、寝て
B:さっきのCanvaに戻り、作業を進めて、新しいデザインの製作途中で、寝て、
A:今度はアイロンがけをやり始め終わりきらず、5分寝て、
B:Canvaのデザインづくりが終わって、Facebokのイベントの説明を考え、寝て、
A:アイロンがけの続きをやり終え、寝て

そんな調子です。



やらせてあげない、をやらせてあげる


このやり方で、大きな効果を感じたのが、やる気の持続です。
25分が来たら、途中だろうが、やめさせます。しかも、5分の休憩の後に、そこには戻ってこない。
「やらせてあげない」。
これが効きました。やりたくなるんです 笑

放っておいても、頭は勝手に考えます。机に向かっていない時間に、洗濯物を畳んで手を動かしながらでも、さっきのあれ、次はこうしよう、それからあれも、と、考えている。すると、その後、次にPCを触るタイミングが来ると、何をどうするのか、ダラダラ悩む時間が少なくて、さっさと手を動かしていくことができていました。これは、楽です。

やる気というのは待っていても出なくて、動くことで始めて出始めます。一度出始めたやる気に敢えて「待て」を食らわせることで、「気になる」のでちょっと燃えてくれました。

やりかけの状態、というのも、良いです。すごく、続きをやりやすい。仕事のテクニックでも、明日の朝からやろうと思っている仕事を、前日の帰りにちょっとだけ手を付けておいてあげる、という方法があります。やりかけにしておくことで、翌朝のスタートが非常にスムーズなんですね。
おなじことが、ポモドーロでもできます。

普段、自分にやりたいことを意識的にやらせてあげよう、と、私は意識することが多いです。でもやりたくない状態を敢えて「やらせてあげない」という状態を作ってあげる。一人相撲をしているようですが、そのフラストレーションが作業のやる気になるのであれば、いい話です。


疲れにくい

これも狙ってやったことなのですが、敢えて「身体的な活動」と「頭脳中心の活動」を互い違いにしたので、同じ体勢が長時間続くことがありません。
とくに私のようにPCを使う仕事をしていると、人類にとって本来は不自然な状態である「座る」をひたすら長くやります。これが様々な体の不調になることはわかっている、わかっているので、会社はスタンディングにもできるデスクを導入してくれたので、時々立って仕事をします、が、そんなことに気の回らない日も多くて結局長時間座っているのが実情です。

今回は活動自体を、PC作業のあと、5分寝たら、次は家事、という風にしたので、普段の仕事よりも振れ幅大きく、変化を持たせることができました。
結構、良い感触を感じています。


5分寝るのが意外と有効


休憩の5分を「寝る」に充てたことについて、それなりに良かった、と感じています。ちょうど寝始めたところをおこされて、起きた瞬間、ほんのすこし頭痛がする、と感じるようなところも多少あったものの、一番休まる体勢が「横になる」なのは間違いないとも思うので、純粋に、休まる、という効果は大きかったようです。

次何をやろうか、ということを考えられる時間でもあって、それも良かったポイントです。それを真剣に考えていると休んだ感じにならないので深く考えないようにしていましたが、それでも、もう何時くらいだから、その先のターンでは、家事はお昼ごはんにしよう、とか、あと何周であの作業が終えられるかな、とか、「作業そのものからは離れて、全体を俯瞰する時間」として一瞬使えるのが、その後のスムーズさにとっても大きかったように思います。
特にこれが、今日やることがひたすら一種類のことだったら、それほどでもなかったかもしれないのですが、家事にしても種類は色々あるし、PCの前でやることにもバリエーションがあったので、いろんな作業をするときに、全体を俯瞰できるタイミングがあるというのは見通しをよくできる効果もあったように思います。


最後はグダグダになった 笑

朝から夕食まで、実に順調だったのですが、それが崩れたのは夜でした。もういいかなと思ってしまったんですね。
メルマガを書く、noteを書く、クローズドのFacebookのグループで投稿をする、これらの「日課」にしていることをやり始めると、結局「終わるまでタイマー無視してやり続ける」悪い癖が、出てしまいました。

これらのMUSTのタスクを日中の時間に入れて置かなかったのが、そもそも良くなかったのかも、しれません。
でも、昼間の時間をつかってやったことも、今日ぜひともやりたいと思っていたことだったので、うむ、難しいですね。



時間に縛られたくないという思い

メルマガやnoteを集中して書き始めたときに出てきてしまったのが、「中断させないでくれ」「時間に縛られたくない」という思いでした。ポモドーロをやってみようという気持ちよりも、強くなってしまいました。

文章を考える、ということに対して、私の中で、思う存分やりたい、時間を気にせずに書きたい、という気持ちが、強いなぁというのを、感じることができました。そんな事、思っていたのですね、自分。


最初から負ける戦いを挑んでいる気がする 笑


感じ方に依って、時間の流れを超越した感覚を持つことができる可能性、というのも、あると思うし、非常に魅力的、なのですが、具体的なやり方が、今の時点では、わかりません。
そういう次元でいうと、「時間に縛られたくない」という言葉、書いてみたからこそ、冷静に客観的に自分自身に突っ込むのですが、それはどうも、分が悪いというか、最初から負ける戦いを挑んでいる気がします。

私たちは時間の流れの中に基本生きていて、そこから逃れる方法は、上に書いた通り、ないとは言わないけれど、今行使できる状態にありません。だとしたら、時間の流れからは逃れられない。

時間に縛られたくないというのはまるで、時空の狭間に行きたいという、儚い夢物語に過ぎないようにも思います。なんというか、夢のない話かもしれませんが、「そんな夢みたいなことを言っていないで、現実的に、睡眠時間も仕事の時間も遊びの時間も十分に確保しながら、メルマガもnoteも書くためにどうするかと言うのを真面目に考えなさい」と、思ったりもします。


そういう遊びという便利な言葉に逃げないこと 笑


何かに失敗したときに、落ち込む人がいます。
落ち込むことも、悶絶することも、絶叫することも、長い人生で見ると、あるいは前世や死後の世界ともつなげてみると、「今世にそういう遊びをやりに来ている」と捉えることもできます。
これは、つらい状況のときにも、俯瞰する視点を与え、痛みを和らげる効果もある、考え方です。

ただ、弊害があるなと最近感じています。

それは、落ち込むべきときにも真剣に落ち込んでない、というケース。落ち込むゲームだとかいって、その言葉に逃げて、向き合うチャンスを、逃している。
と、真剣な顔をして言ったところで、「向き合うべきものに向き合えない」という失敗もまた、遊びなのですけれど・・・。もう、いいか。どれも必要な経験だから、そうなるのでしょう。

それでも、思考の軌道修正くらい、しても良いはず。
この話をし始めた根本に戻すと、今日中にメルマガもnoteも必ず書こうと思っていたにも関わらず、昼間のポモドーロの中にそれを放り込まずに、夜になってからドタバタとなんとかしようとした、というのを、今、私は問題視していて、それの検証をしてみたいと思います。


自分の趣味 ←→ 相手のあること


日中のポモドーロでメルマガやnoteの執筆というタスクを扱わなかったことについて、当時の自分さんという記憶に釈明を求めたところ、「今日の日中に実際にやったタスクのほうが優先だと思っている」とのこと。

何が違うのだろうと考えてみると、メルマガやnoteはあくまでも自分の趣味で、それに対して、今日の昼間に行ったことは、自分ひとりの個人作業ではなくて、集団でやっているコミュニティの活動に関連する部分です。

相手のあるものを優先した、ということであれば、もし、その時点でもすでにメルマガやnoteを意識していたとしても、結局は同じ判断になったのかもしれない、とも、思います。


結局、全体量がオーバーしているのか


優先順位は、間違っていなかった。だけれど最後、夜中にケツカッチンに、なった。だとすると、です。結局は、やろうとしたことの総量が、時間に対して超えてしまっている、という風に、言えるかもしれません。

毎日マスト、としている、メルマガやnoteにかける時間についても、やはり、ポモドーロで、何枠分要るのか、ある程度、測っていってみるということが、必要なように、思います。


で。作業時間の見積もりは、どうだったの。

ポモドーロは「時間を味わう」のに一定有効そうだと思います。また、自分のやっていることを計量するのにも使えそうです。
「全然思ったように進んでない」の実態が、解像度高く見えてきました。

まず、想定していないタスクが本当によく発生するなぁ、と、思いました。Canvaで新しいデザインを作るために開いたのだけれど、そもそも、過去から作ってきたデザインがグジャっと保存されている状態、使わないものが混じっている、同じようなファイルが複数散在している、その状態が嫌なんだ、作業をする前にそれを整理してしまいたい!、とか。
洗濯物をどうにかするつもりで洗濯物の場所へ行ったら、隣の炊事場で昨日使って洗って乾いた食器が、乾燥かごにあるのがすごく気になる、食器棚に全部しまいたい、とか。 笑
普段から、「気づいたらやりたくなるのに気づいていない、やらないままにしているタスク」というのがものすごくたくさんあることに気が付きます。

そういう、ある意味で道草なんですが、でも、全体見ると「確かにやっておいたほうが良いよね」というタスクは、実際、やってしまったほうが、心理的にも満足度が大きい。そうなると、予定外の作業で時間が膨らんでいる分も、今できる最大の幸せ(というと話が大きくなりますが)を取りに行っていたんだな、というふうに考えることもできます。

また、終わりから考えていない作業がよくあります。どこ目指してる?何がゴール?もしかして考えなしにやり始めてない?という。いや、実際、考えたら1秒で思い出せることなんだけど、その瞬間、いま、ゴールの意識飛んでたよね?と。その瞬間って瞬間というほど短くもなくて、結構ゴールの意識飛んだ状態で動いてしまっていて、動作が緩慢というか、切れが悪いというか、そんな状態になっています。逆算思考に追われるのは気持ちよくはないのですが、「ゴール」は常に頭の片隅にあって欲しい。そのほうが、行動精度が上がるからです。

25分という時間に対して、「できそう」という感覚があるものは、実際に時間に収まったな。というのも、新しい発見でした。
できそうなものはできる、できそうにないものはできない。
まんまじゃないか、というお話なのですが、「案外、自分の感覚が頼りになる」というのが、ちょっとうれしいです。

ということはです。そうなんですね。もう、わかっているんです。
最初から、夜はケツカッチンになることも、睡眠時間削って書くことになるなっていうのも、これが問題だとか騒ぎ始めるもっともっともっともっともっと前の時点で、どうなるというのを、だいたい、分かっている。
そして、破綻しているのはいつも、「最初からうまくいかないのが予想できていた場所」なのですね。

そして、「悪い予想が見えたところで、どうすれば良いのかわからない、どれも削りたくない」から、そのまま、泥沼に突き進んでいるんだなぁ。というのが、分かりました。



将来に向けた希望めいた何か


今になって思うのは、休憩の5分の一部で、今の25分はどんな意味があったか、そこで何を感じていたかを振り返ってみたり、次の25分でどんな感覚や感情を想定・期待するか、どんな意味をもたせるか、などを考えられると、より良かったのかなと。
寝るのもすごく大事ですが、今度はそんなことも考えながらやってみたいと思います。

そして、「頑張りたい人」な自分を、発見しました。
ポモドーロをやっている最中は、その自分は出てこなかったのですが、ポモドーロがあったからこそ、夜に詰め込み始めた自分に気づくことができたと言えます。
「頑張ってるって思われたい」という自分を自覚します。そうじゃなきゃ価値がない、と、自分でも、意識しないうちに思っている可能性があるなぁというのも感じるので、自分自身にじっくり聞いてみようと思います。


以上、ざっとですが、ポモドーロ・テクニックで時間の使い方に区切りと変化を持たせて、飽きない・体が疲れにくい、内容を味わいやすい、時間の使い方を、「やってみた!」報告でした。


ではまたーーー!!


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