なにもない、という贅沢のはなし
今日、なにもない、場所に行った。
空と陸が、つながっていて。微生物を感じて、そして雲に祈った。
大変な衝撃、というか。
なにもないことへの憧れったら相当なものだと思い出した。
そもそも、ここには、なにもない。
そうした場所を死ぬ場所として選んで、孤独感に苛まれる日々を脱出するための今だったことを、わたしはきっちりと、思い出したのだ。
わたしにはもう、そりゃあもう、なにもない。
キャリアも、お金も、知名度も、時間も。なにもない。
あるのはただただ幸福だということだけだ。
そうしてなにもない現実を、まわりくどくもなくただストレートに、ただただしあわせだといえる、自分を尊敬しているくらいなものだ。
お金がありすぎること
時間がありすぎること
ひとが多すぎること
選択肢が多すぎること
どれひとつとして幸福に直結しないことを知って、わたしがえらんだことは、なにもない、が最も幸福なのであるということだったんだった。
そうしてここは。恵那山麓は、住民の誰もが「なにもない」という場所だった。わたしはそこが、幸福の宝庫のように見える。
みんながあるといっているものは、方向として消えて行くし、枯渇する。
奪い合って、憎しみあって、散って行く。そういうもの。
でもここはなんにも、ほんとうになんにもないんだもの。
「在る」を見つける度、幸福になれるのは、そんな場所なんだ。
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