月間「根本宗子」第17号『今、出来る精一杯。』を観て。
昨日、祖父が死にました。
祖父と言っても、父方の祖父で、わたしは「おじいちゃん」と呼んでいました。
幸か不幸か、わたしは身近な人の死を経験せず20年間生きてきました。ですから、つい一昨日まで、じーじも、ばーばも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、ずっといると思っていました。
そんな中、昨日、おじいちゃんが死にました。
訃報を告げる母からの着信で目が覚め、意識が覚醒したあとメッセージを見ると、父からの同等の内容を告げる通知がありました。
葬儀は、明日の夜、執り行われることになりました。
その時思ったのは、
「明日の5限の授業はグループ発表だったなあ」とか、
「それだったらグループのみんなに連絡をしなきゃ」とか、
「バイトを休まなきゃいけないのが申し訳ないなあ」とか、
「新幹線の切符を取らなきゃ」とか、
「あ、その前に学割を貰わなきゃ」だとかで、
悲しさより先に、翌日の葬儀に備えた現実的な問題が脳内を占めていて、「あれ??こんなもんなのか?」と自分でも戸惑ったのでした。
確かに、これまで身近な人が亡くなるという経験をしてこなかったのですが、それでもここまで自分があっけらかんとしているとは思わず、朝から今現在まで(今は16時31分です)バタバタしておりました。
まさしく「悲しむ間もなかった」という言葉がピッタリですが、きっと明日おじいちゃんの顔を見たら涙が出てくるだろうし、悲しくてたまらないんだろうなと思っていました。
そんなバタバタの中でも、わたしは今日、1ヶ月半以上前から、どうしても外せない予定がありました。
それは、月間「根本宗子」第17号『今、出来る精一杯。』を観ることです。
わたしは主宰の根本宗子さんが大好きで、彼女の作品は欠かさず観ています。(残念ながら今年の夏の『プレイハウス』はどうしても都合がつかずいけなかったのですが…。)
そもそも、この文章は『今、出来る精一杯。』を観たわたしの、言わば観劇レポートであり、わたしがこの舞台を観て思ったことをつらつらと語るだけのものです。だってタイトルからして小学生の作文みたいでしょう。
ここまで読んでくれたみなさんは、わたしのお喋りに付き合ってもらって申し訳ない。ありがとうございます。(文字をスマホで打つのは女子大生にしたら喋っているのと同等です。)
そして書き出しが、タイトルとは似ても似つかぬ重たいものですみません。
だけど、わたしの身の上話無しには、この舞台の感想は書けないと思いました。
だって、この舞台は生きていく上での大切なことを教えてくれたから。
ママズキッチンというスーパーを舞台に、様々な人間たちが様々な問題を抱えながら様々な関係を築いていく。綺麗なことだけじゃなくて、汚いことや目を逸らしたくなるようなことも沢山描かれていました。
私が根本宗子さんの作品を好きな理由の一つに、「女の子が共感できる言葉や仕草が多い」というのがあります。
嬉しい時に飛び跳ねながらハグするとか
相談事は別に答えが欲しくてしているわけじゃないとか
気持ちは目に見えないから、高くなくても何か物で表してくれると嬉しいとか。
この「わかるポイント」を突く台詞の数々が、「作られたもの」という感覚をなくし、舞台上の空間をより現実的にしている気がして、つまりわたしたちの日常がそのままある気がして、だからこそたまらなく面白くなったり、たまらなく苦しくなったりするのです。
そして最後のシーン。
登場人物たちはみな、それぞれが抱えた問題で苦しみ、思いをぶつけ合い、爆発し、疲弊し、それはそれはボロボロでした。
こんなに1度に起こっていいのかと思うくらい、ボロボロでした。
演劇というのはもちろん物語があって、(物語のない演劇もありますがそれはまた別の話。)その中では理不尽なことがまかり通ったり、客観的に正しいことを言っているなあと思う人が報われなかったりします。この作品も然りです。
各々のフラストレーションと欲望が入り交じる混沌の中で、善良な観客の思いが届かないもどかしさが何度わたしを襲ったでしょう。あいつが絶対悪いのに!なんでそういうこと言うの!と何度思ったでしょう。
それでも、そんなことがあっても、ラストシーンでは、そんなボロボロな登場人物全員が、わたしはたまらなく愛おしく思えました。
物語の中だけでなくとも、この世界には辛いことや苦しいことが沢山あります。
こう書くとなんだか急にありきたりさとチープさが出てしまいますが、20年しか生きていないわたしですらそう思うのですから、きっと正しいことを言っています。
そして、苦しいことや辛いことがジリジリと迫ってきて、ボロボロになり、もう一歩も後ろへ足を引けない絶望の淵に立たされたときに、人は初めて「生」を実感するのだと思います。
(もちろん幸せをかみ締めながら「生きてる〜」と思う時があるかもしれませんが、そんなものはすぐ忘れます。後に経験として心に残る確率は極めて低いです。一時の充足です。よって大半が嘘です。偽物です。)
そんなボロボロ崖っぷちのみなさんが産み出す膨大な「生」のパワーと、根本宗子さんの作り出す世界観とが相まって、その時わたしはわたし自身の「生」を実感しました。
そして、そのとき、わたしの「生」とは、昨晩亡くなったおじいちゃんでした。
身近な人の死を20歳にして初体験したわたしは、そのあとの諸作業をこなす能力が既についていただけに、率直にその死と向き合うことを知らず、そのやり方すらもわからず、感情は明日葬儀を迎えたらその環境に身を委ねてしまおうと思っていたのです。
生きることは、希望なんだけど、絶望でもあって、だけどとても希望に満ちている。
わたしは「生」を、自身の命ではなく大好きだったおじいちゃんの命をもって実感し、絶望と希望を再確認出来ました。
ラストシーン、わたしは初めて演劇を観て涙を流しました。
『今、出来る精一杯。』という作品は、わたしの感情を解放してくれました。
そして、生きていく中で絶望の淵に立った時、わたしに出来るのは今を精一杯生きることだと教えてくれました。
苦しくても辛くても、出来ることから初めて、出来ることを続けて、日々を生き抜くことがどれだけ大切か、教えてくれました。
出来ることなら、カーテンコールで根本宗子さんや清竜人さんを始めとする役者の皆様や、素敵な演奏を届けて下さった演奏家の皆様にお礼の拍手を直接送りたかった。
この気持ちの行き場を求めたわたしは、今こうして文章を書いています。
今日は本当に楽しかった。とても素敵な音楽劇でした。いい夢が見られそうです。夢の中でおじいちゃんにも会える気がします。
さて、もうすぐ午前2時です。
そろそろ寝ることにします。