心を溶かしてくれるもの
大切なひとがいる。
大切な想いがある。
大切な時を過ごす。
人間として命を与えられた1番の喜びは、物質的制限があるからこそ感じられる、唯一無二の存在との繋がりのような気がしています。
どんなにSNSが発達したって、誰とでも繋がれるわけじゃない。
そこにはあらゆる偶然が重なって、たまたま今を共有している。
その喜びって、言葉で現すには大きすぎるもののような気がしています。
しかしながら、そんな繋がりを大切にできない関係が増えている、これってすごく悲しいことだなと個人的には想います。
”人との繋がりより経済活動”
そう考える人もたくさんいることを知っています。
だけどそれは、真理ではないと私は考えています。
なぜお金が欲しいのか。
お金を得て何がしたいのか。
なぜ力が欲しいのか。
力を得て何がしたいのか。
そこが最も大事なことだと思います。
私は20代の頃、最愛の人の死と向き合う経験をしました。
それは本当に辛く苦しく、心にポッカリと開いたその穴は、しばらく埋めることができませんでした。
しかし私が苦しかったこと、それは、愛する人を失ったことではありませんでした。
人はいつか死ぬ、だからその事実自体を悲観することは私は反対派です。
必ず旅立つ時が来る、だからその旅立ちを、気持ちよく送り出してあげること、本人の意思に寄り添い、本人の望む旅立ちを共に共有すること、そこに重きを置いています。
じゃあ何が苦しかったのか、それは、自分の大切な人が、死に直面し、もがいているその状況を、支えきれなかったと思ったことでした。
もっと自分が成長していれば、もっとできることがあったのではないかと思ってしまうのです。
私が最愛の人をなくすより前、お父様を亡くした友人がいました。
その友人は、お父様をなくされてしばらくし、こう私に言いました。
「きっとどんなにやってあげたとしても、もっとしてあげたかった、こうしてあげたかったと後悔するものなのだろう。」と。
きっとその言葉は本当で、実際にできたことがベストなことだと、自分を納得させるしかないのだろうと、自分の経験に対しても考えるようにはしています。
ただやっぱりどうしても、ふとおもい出してしまうのです。
ものすごく精神的に強かったあの人が、死に怯える姿を。
取り乱したことなどないあの人が、動かなくなる自分の体に失望し、1人静かに涙を流す姿を。
その姿を思い出すたびに、もっと寄り添ってあげたかった、もっと一緒に戦いたかった、そう想ってしまうのです。
お金がいくらあったって、力がどれだけあったって、結局大切な人を守れなければ、幸せにできなければ、そこに価値はあるのでしょうか。
今は、人との繋がりがあるようでない時代のような気がしています。
表面的には繋がれる、だけど本当の心のうちを安心して共有できる人は少ない、そんな時代のような気がしています。
”これが時代の流れなのだ”
そう言ってしまえば、それが全てなのかもしれません。
だけど私は思うのです。
そういう時代だからこそ、意識的に大切な人と、大切な想いを共有する機会を作ることが大切だと。
『愛している』
その感情と向き合う時、人は大きな恐怖心を抱きます。
本物の愛情であればあるほど、拒絶された時の悲しみの大きさや、自分が誰かと1つになることへの恐れが心を支配して、”そこ”から目を背けようとしてしまいます。
だけどそこで逃げ続けていては絶対ダメで、「言わなくてもわかってくれる」なんて自分の都合の良い解釈もやめて、きちんと大切な人の目を見て、
『愛している』
そう伝える必要があると思います。
人はいつ死ぬかわかりません。
いつ何が起こるかわかりません。
相手がこの世からいなくなってしまっては、「ごめん」も「ありがとう」も直接相手の心に届けることはできません。
あなたのその一言で、溶け出す心があるかもしれません。
あなたのその一言で、流れる涙があるかもしれません。
心の奥に湧き出る大切な大切なその気持ちを、どうか見て見ぬ振りなどしないで、大切な人の心の真ん中に、届けてあげて欲しいです。
結局のところ人を幸せにするものは、お金でも力でもなんでもなくて、大切な人からの温かい言葉、それに尽きる気がしています。