一度壊れている だから美しい
金継ぎとは漆を使って壊れた器を修理する日本独自の古来からの伝統技法です。
その歴史は古く、「壊れた器を漆で継いで直す」という修理自体は縄文時代から行われていたそうです。
「金で装飾して仕上げる」というのは、室町時代のお茶の文化から始まったと言われており、死者の国から蘇った器は、それ以前のものよりも「高い価値」を認められます。
私はこの金継ぎという文化を、アメリカ人の方によって開催されたとある英会話セミナーで知りました。
初めはほとんど興味を持てず、英語もよくわからないなあと思ってセッションを受けていたのですが、次第にその魅力に引かれていきました。
『修理した器もありのまま受け入れる』
これは、金継ぎに芸術的な価値が見いだされるようになったきっかけの1つと言われている、茶道の精神です。
私はこの考えに触れた時、それまで大嫌いだった自分の運命を、強く肯定できるようになりました。
私は自分の家族が一度壊れたことに、強いコンプレックスを持っていました。
それはまるで、”私自身も壊れている”かのように感じられたためです。
現に私の心は一度壊れています。心が壊れた人たちの世界というのも知っています。
そこには争いが絶えなくて、常に批判的な言葉が飛び交っていて、
根底では他者へのリスペクトよりも憎しみの方がまさっている世界です。
そんな世界に身を置く自分を、私はどうしても好きになることができませんでした。
だけど金継ぎは、壊れていたものが修復されてより強くなることの価値を、私に教えてくれました。
一度壊れを知っている。
だからこそわかる世界がある。
だからこそできることがある。
だからこそ輝く美しさがある。
これは私にとって、ものすごく強いメッセージとなりました。
日本では、自分の心に闇があることや問題があることを、タブー視し隠そうとする文化がまだまだ根強くあるような気がしています。
本人に自覚はなくとも、潜在的な自分の闇を感じ取り、その正体を人に悟られないように、あえて明るく強く振舞う人たちというのも多いと感じています。
そして私は、その自分を偽る行為が、どれほど苦しいことかを知っています。
それが、どれほど心に負担を与えるかを知っています。
また、それこそが、日本のあらゆる社会問題を大きくする原因である気がしてなりません。
金継ぎは教えてくれます。
壊れていることは悪いことなどでは無いのだと。
壊れを知ったから出せる美しさがあるのだと。
一番大事なこと、それは、壊れていない自分を演じることでも、壊れない人生を歩むことでもなく、壊れてしまったとしてもその歩みを本当の意味で一度受け入れ認めてあげて、悲しければ気が済むまで悲しんで泣いて、その壊れたところから、もう一度歩みだし積み上げてみることなのではないのかと思うのです。
そして、一度悲しみを受け入れ乗り越え、そこからもう一度歩み出そうとする姿こそ、その人を何よりも輝かせる魅力となるのではないでしょうか。
一度壊れたからわかる世界がある。
私は、壊れに嘆き苦しみ、もがき、あがき、それでも光を信じて歩み続ける自分の運命を、今はとても愛しています。