10年
あの日から丁度10年が経ちました。
3月11日は母の誕生日で、小学校の連絡帳にケーキの絵なんか書いて、帰ったらご馳走が食べられる〜!とウキウキしていた矢先の事でした。大きな揺れが来た時、直感的に「東京に大地震が来た、死ぬ」と思いました。
小学5年生ながらに、親に毎日毎日厳しく中学受験勉強を課せられて耐えていた、この日々の意味が全くなくなると咄嗟に考え絶望しました。今ならもっと思うことはあるけれど、11歳にはそれが全てだったのだなあと思います。
家に帰ってテレビを見て、見たこともない衝撃的な景色に絶句しました。同じ世界で、同じ国で起こってるとはどうも思えない光景でした。そんな中でも母は「勉強しなさい!」とすぐに私をテレビから剥がして勉強机に向かわせるような人だったので、地震が発生して数時間後には私の生活は普段通りでした。何ヶ月か経つととっくに大震災があったことなんて頭の隅に追いやられてしまいました。
そんな私が震災に改めて向き合うことになったのは、中学二年生の冬です。
ソチ五輪あたりで羽生結弦選手の虜になった私は、過去の演技や動画を漁りまくっていました。
そんな時に買ったのが、彼の自叙伝「蒼い炎」。
自分のお金で初めて買った本でした。
彼がスケートを始めた時から今まで、彼の言葉で赤裸々に綴られていて、そこに震災当時の言葉がありました。
真っ暗で先の見えない日々、仙台から出てスケートをやる葛藤、被災地に元気を!という気持ちの一方で、いちアスリートなのに被災地代表のような扱いを受ける苦しみ。当時16歳の羽生選手に、東北に光を!なんていう役割は、辛いものがあったのだと思います。
私が見たソチ五輪の表彰式でのキラキラの笑顔、そこに至るまでの想像以上の苦しい日々に驚愕しました。仙台出身で被災したというのは知っていても、本人の言葉で語られるものはリアリティがあり、改めて震災というものの恐ろしさ感じました。
ソチ五輪の会見で「僕が金メダルを取っても直接手助けになる訳ではない。無力感を感じる」と言っていた彼はその後何度も被災地に足を運び、テレビで取り上げられるたび彼を通して被災地の現状を知りました。
そして、そのような活動以外でも、彼の奥底には「東日本大震災」がずっと大きく鎮座しているのだと思います。自身の被災体験と、自分の目で見た被災地の現状。
何度も何度も、「震災を忘れないで」と声を上げ、何度も鎮魂のプログラムを滑り、何度も何度も希望のプログラムを滑りました。
そんな羽生選手を追っているうちに、私にとっても東日本大震災は何だか他人事ではなくなっていました。
かといって、何をした訳でもありません。
自分が被災をしていないのに語るのは失礼だし、普段の話に出せるようなことでもないし、もしかしたら私が安易に話したらそれで傷つく人がいるかも知れない。SNSなどに載せるのも私の拙い文章ではなんだか軽いような気がするし。
他人事ではなくなっている気がしてることに対しての罪悪感もありました。どうして直接辛い思いをしていない私があの大災害を身近に感じているのだろうと、そのきっかけが私の好きな羽生選手ということにも、この震災を考える上で「好き」というポジティブな気持ちが挟まっているのはいけないことなんじゃないかと思っていました。
それでも、他人事ではなくなってる=考えてる、ことは悪いことじゃないと思えたのは、やっぱり羽生選手のおかげです。
羽生選手が何度も訴えている、「3.11を忘れないで」というメッセージ。これは私たちの世代、そして、直接被災をしていない人にもかかっています。3.11をリアルタイムで知っている私たちの世代が、知る努力をし、風化させず、次の世代に繋げなくてはいけない。たいそうなことはできませんがとにかく初めの一歩として知っていくことから、始めようと思います。
「共に、前へ」