金沢でおもう、旅と消費
ー2020年秋ー
11月中ごろ、秋の終わり、はじめての金沢。
友人と1泊2日の週末旅行にやって来たが、なかなか良いところだ。定番のひがし茶屋街や兼六園は、やはり一見の価値があるな。紅葉が見頃のシーズンだし、政府のGOTOトラベル効果もあいまって、どこもかしこも相当に盛況しているようだ。
茶屋街を練り歩く人々を、ぼーっと見物してみる。
嫌でもよく目につく、“着物姿で記念写真を撮る”若い女の子たち。最近、いわゆる「古都」と呼ばれる金沢や京都では、観光客向けのレンタル着物が人気らしい。たしかに茶屋街のあちこちに、レンタル着物と書かれた看板を見かけた。そういえば、この間金沢を訪れたと言っていた友人も、インスタグラムに着物姿の写真をあげていたっけ。ステレオタイプ化した和の文化を味わいたいのは、外国人だけじゃないんだな〜なんて思いながら、インスタ映え写真の撮影合戦をしている女の子たちを眺める。
少し離れたところには、お茶屋さんの前で長い列を成す人々がいる。やっぱり、「古都」にきたら“お抹茶を飲んで和菓子を食べたい”そんな心理。わらび餅、白玉団子、お抹茶パフェ、ほうじ茶タピオカなる代物まで・・・特に女の子が飛びつきそうな商品が並んでいて、誰だって目移りしてしまう豊富さだ。かくいう私たちも、この茶屋街を歩き始めてからというもの、どこのスイーツを食べるかで話は持ちきりだ。
しかし、そんな茶屋街の光景を見ながら、一抹の違和感。
戦禍の影響からも奇跡的に免れて、今日まで立派な木造建築の連なりを留めている、ひがし茶屋街。その街並みを一目見ようと、全国から観光客が押し寄せるようになり、その流れに呼応するように、可愛い土産屋やカフェが相次いで出店した。ニーズに沿うブランディングに成功したこの街は、地域活性ツーリズムの観点から見ても、紛れもない成功例だ。ただ、なんだかこの街は、消費活動に食い荒らされている。木枯しのような虚無が少し、心を通り抜けた。でも、こんな気持ちになるのはなぜだろう?旅先でこうしたテンプレート的な消費活動を目にするのは、何も今回が初めてではないはずなのだ。
海外での旅の記憶を辿ってみれば、ローマでは「真実の口」に“手を突っ込んで記念写真を撮る”ために、教会前に長蛇の列ができているのを見たし、「スペイン階段」は“ローマの休日のアン王女よろしく、ジェラートを食べる”人たちでごった返していた。パリでは、「凱旋門」に登って“放射線状に整備された街並みを確認”した後、「シャンゼリゼ通り」で“マカロンを買う”流れはやはり定番だった。その土地を代表する文化やアイコンと、それに紐づいた一辺倒の観光消費は、世界中の観光地で例外なく見られる現象といえる。それなのに、この金沢でだけ妙に強い反応をしてしまうのは、なぜだろう。
いや、金沢だけじゃない。
この旅の行き先が京都だったとしても、私はきっと同じように強烈な違和感を覚えただろう。
海外では自分自身がよそ者であったから、映画や本で見たような現地のステレオタイプに踊らされて、本質が見えていなかっただけだろうか?それとも、日本国内で、日本人が、それも普段はスタバのフラペチーノやらを飲むような若者達が、古都ではお抹茶やお着物をこぞって体験したがっていること(それが本当の意味での自文化の追求であるかはさておき)に違和感を覚えたからだろうか?あるいは、資本主義精神が色濃い日本だからこそ、観光資源と消費行動を結びつける意図があまりにも露骨に映り、生々しく映ったのだろうか?
自問自答してみても、この違和感の正体はまだよく分からない。
分からないので、いつかのための覚え書きとして、このモヤモヤをひとまずにここに残しておこう。
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