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23で死んだあいつの生かし方【私なりの弔い】(筆者おすすめ)

【No.9私なりの弔い】


私がまだ20代の頃、後輩にスポーツバイクを乗り回すバイク仲間がいた。


彼は赤色が好きで何にしても赤色を選んでいた。


着る服、ヘルメット、吸うタバコまで赤ラーク。

たぶん無理して吸ってたと思う。

そして、もちろん乗っているバイクも真っ赤なSS
(スーパースポーツの略)だった。


当時は職場も一緒で仕事の休憩は喫煙所でバイクの話をしたり、夜勤明けはよく一緒にすき家で玉かけ朝食や牛小鉢をつついて愚痴ったりしてた。

まあ夜7時に出勤して朝の9時に食べる物はなんだって美味い。

過酷な勤務の疲労も彼と話していると和らいだのは事実だ。



しかし、しばらくして彼は死んだ。
そう、本当に突然だった。

原因は交通事故、23歳でこの世を去るには早すぎた。


ライダーなら破損の程度で何キロ出していたか、フレームの素材などからも想定したりするが、おそらく衝突時ですら余裕で150kmは越えていたと思われる破損の仕方だった。


私も彼が死んだ埠頭の交差点まで実際に行き、彼が深夜に何キロ出して、ブレーキが間に合わなかったことも想像した。


相手は大型トレーラーで運転手は逮捕されたが、実際には彼の速度にも問題があったことは現場に行くとよく分かった。


赤色の好きな彼が最後に赤色に染めたのは埠頭の第二車線、自らの血をもってしてそれを証明した。



私も中央分離帯に渡り、彼の吸っていた赤ラークをお備えし、死んだ彼と一緒に吸った。

相変わらず赤ラークは臭くて喉がイガイガするから好きではない。


昨日の章にもあったが【長生き=必ずしも幸せではない】という考え方には例外がある。

それは不慮の事故死、災害死、先天的
(家系的)病死、そして自殺だ。

自殺も含め、本人だけの問題ではない。
くじでハズレを引くようなものだ。

私にも大人になってしばらくは斜に構えて、否定されれば敵とみなしていた頃があった。

そういった認知のズレが精神疾患の原因になるという事を知ったのも、しばらく後の話だ。


まあしかし、固定概念と同じで、人生の統計データから認知というのは形成されると思っている。

つまり、そういった経験が過去にあったからそのズレを持ってしまったのだと思う。

精神疾患の人の認知のズレは周りの影響でもある。

実際、過去にいじめを受けた事がある人は、受けていない人に比べて鬱を発症する可能性は3倍以上になる。


そういった知識も持たずして、心が弱い、甘えるな、本人のせいだ、などとは言えないはずだ。

だからこそ、それによって死を選ぶ。
こういう死に方は本当に悔しい。

バイクに乗っていると、好きな物で死ねるならそれが本望だろという輩を見かける。

バカを言わないでもらいたい。


死ぬために乗っているのではない。
むしろ私は死なないために乗っている。


乗っていれば今一つのことに集中できる。

不安とは程遠い場所に行けるからだ。


世の中には生きたくても生きれない人がたくさんいる。
そんなこと小学生でも知っている。


しかし私は、落ち込んだりして希死念慮があった時に今まで死んだ身近な人のことを思い出すと『ごめん、そうだよな。』と我に返ることができた。

言い方は悪いが“利用”させてもらっている。

死んだ人も、過ぎた時間も返ってこない。

それならば今自分が生きるために使ったほうがいい。


動物も然り、死んだらただの肉塊であり、飢えをしのぐために死んだ仲間を食べたりもする。


これも私の考え方なのだが、私たち人間もそうだ。

“活用する”しかない。

今自分が生きるために死んだ人を糧にして生きていくしかない。


実際に人間でも、1972年にウルグアイ空軍機がアンデス山脈に墜落した際、生き残るために死亡者を食べた事例も確認されている。


もっと言えば私たちのご先祖さまも同じだ。

鎌倉時代は食料も取れない時期が続いたりして人の肉を食べていた歴史がある。

生きるために必死だったのだ。


大きなお墓を作ってあげる事、はたまた高い線香を供えることが敬うというカタチなのだろうか。


私は、敬うとはその人の成功にしろ失敗にしろ、それを忘れずに自分の人生に落とし込めていることだと思う。

言ってしまえば活用してあげる事が一番の供養なのだ。


人だけではない。
牛だって人に食べてもらうために本来の寿命を10分の1まで削られて出荷される。

ネズミにしても新薬の開発にこれまで何千、何万と犠牲になってくれた。


時は遡って戦時中の昭和。

当時は第二次世界大戦の影響もあり、戦後の昭和とは違って平均寿命は織田信長(49)や豊臣秀吉(62)よりもずっと短い31歳だ。

平成の前の話だ。

短すぎて驚くだろう。
私の年齢ならもう死んでいてもおかしくない。


広島や長崎には原爆が落とされ、30万人の人が一気に亡くなられた。


私は戦争を経験していない。
仏壇にある軍服を着たご先祖さまの遺影しか見た事がない。


しかし、彼らが必死に繋いでくれた命があるから今がある。

必死に戦って死んでくれたから今がある。


私たちはそうして繋いできた命で生きている。

だからこそ伝えたい。


それは、命は改めて大切だということ。
そして、自分だけの命だと勘違いしてはいけない。


私はバイクに乗るのでより命の生死には敏感で、事故現場も幾度となく遭遇してきた。

明日は我が身だと思っている。


そういう環境で生きてきたので人よりも“理不尽な死”も目にしている。


私自身も鬱病になり、苦しかった時期もあった。

鬱で自死をされた方も見てきた。

そんな私が書籍として文を書く理由の本質は、まさにそういう死に向かって苦しむ人たちを減らしたいからだ。


世間は頭が悪く、そのことについて勉強する姿勢もないので本人の責任だと逃げ場を用意するが、あれは本人だけの責任ではない。


自分で死を選んだら終わりだ。
魂は廻らない。

無理にとは言わない、人生は苦しい、私も死にたかった。

ただ一つ、陰キャラでアニヲタのバイク乗りと約束して欲しい。


それは死なないでということ。


私はあなたの死を活用したくない。

指切りげんまんしよう。

誰だって波はある。

人生が晴れる時は必ず訪れる。


そう考えて生きていこう。

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