5Pした時の話
3Pして仲良くなった男の子と、何回か二人でセックスをした。3Pした明け方、一人は朝大会があると言って帰った。もう一人が残って「二人になりたかった」だとか「やっとイチャイチャできる」と何度も何度もキスをしてきた。その時かわしたキスは何と表現したらいいかわからないが、永遠というものを感じないからこそ爽やかで晴れやかな気持ちで、所謂青春といった甘酸っぱさだった。
普段から、漢数字と算用数字の使い分けには気をつけている。単純に数を数える時は、1人、2人、3人……。そうでない、言葉として表現する時は漢数字。
一人でオナニー、二人でセックス。
3Pとか5Pとか、漢数字にする価値などない。参加した人間など、数だ。数の大きさを競う表現だ。
5Pしたとき、3Pした時の男の友達と、その時いた大会に朝行った男友達の上司と、男友達の取り引き先の人とヤった。既婚者だった。女の子は、常日頃から5Pしたいと言っていた友人を呼んだ。今では子どもも産んでいて、立派なママをしている。
人は、パートナーに知らないうちに3Pも5Pもしれっと経験しているのかもしれない。かもしれないというより、していることがよくあるだろう。していないと信じきっても確かめる術はきっとない。立派なママをしている子だって純情そうで5Pなんかしたと思えない。わたしだって、5Pしたことある人間だなんて、周りの誰からも想像されていないに決まっている。
5Pをした、たった一日の経験など人は無くすことができる。人生の、そんなたった1日でしかないことなど、いくらでもなかったことにして生きられる。5Pしたことあるなんて言っても、都合のいい方向にしかモテない。
しかし、5Pくらいしたことあるよなんて、語って笑ってくれるパートナーがほしいなと時々思う。そんな心の広いのか、興味が薄いのか、むしろ好奇心があるのかわからない人なんか、なかなかいないのはわかっているが、5Pしたことある自分だからこそ話せる話に耳を傾けてくれる人がいればなぁと思う。
自分では、5Pを経験した頃は、面白い経験ができたと思ったけれど、5Pを経験し終えてしばらくしてからは、こんなこといつでもやろうと思えばできると思った。数を競うことなんて、とてもつまらないと思った。
例えば、パートナーが、「5Pってどんな感じなの?」と尋ねてくれた場合、「どうせ、3と2に分かれる」とわたしは話すだけなのかもしれない。3人と2人。そこで始まるセックスは数合わせなだけで、二人でするセックスではない。
「興奮するの?」と、もしパートナーが興味を持って聞いてくれた場合、「相手の女の子の喘ぎ声が聞こえて、何だか自分の喘ぎ声は大丈夫か、どれだけ大きい声を出してしまうんだろうと、焦る。それに気づく。他の人は自分の喘ぎ声が大きいか小さいか知らないまま死んでいくのかもしれない」とそんなネタも話したい。
友達の取引先の人だという初対面の既婚者を見て、あぁこういうイケメンの普段いいパパやってそうな、休日は自宅でBBQパーティー開いて美人で可愛い嫁の目のくりくりした子どもが二人いて、仕事もバリバリこなしている、こんな人が5人泊まれる宿探すためにAirbnb借りてローション大量にペットボトルで持ってきて、ドンキで買ったその場限りの電マやローターを紙袋に入れてきて、シャワー浴びる時に「どうなの?興奮する?」などと言うのだ。世の中って寒いな。と、5Pする空間に私は存在していないかのようにとても客観的になった。第三者かのような気持ちで、5Pが繰り広げられる光景を見ていた。5人いるから、第六者というわけだ。第六者的な目線など、なかなか日頃感じられない。
社内や、取引先などで、イケメンで爽やかで普段いいパパやってそうな人がいたら、どうせこの人もどこかで5Pでもしているだろうし、5Pしたいんだろうし、いつでもやろうと思えば5Pできるんだろうと思う。
優しくて、有難い言葉をかけてくれて、かっこいい姿を見せてくれて、仕事ができる人こそ、家族の知らない間にしれっと5Pしている。本当にくだらない、人生でやってもやらなくても何の影響もない行為を、家族に仕事で帰りが遅くなると言い訳して、こそこそやっている。
わたしだって、どうせ5Pをしたことある妻にいつかなるのかもしれない。今はただ、5Pしたことあるただの女性だ。世の中に溢れている、ただ一人の女だ。