相互理解をする為に、知らない人と話す
先日、子供たち二人を連れて行ったことない温泉に行った。
普段なら、6歳の息子はパパと男湯に、3歳の娘は私と女湯に、と別れて入るのだけれど、この日ばかりは夫がお疲れで、「俺は一人で入る以外のオプションはない」というような雰囲気だったので、私が二人を連れて入った。
どこにどんな湯があるのかあんまり分からないので、私は馴染みのない温泉に入る時にはメガネをかけて入る。もちろんそのうち湯気がもんもんとしてきて、メガネは使いものにならないのだけど、ちょこちょこと走り回る子供たちを近眼の目で追いかけるのはなんとなく不安なのだ。
唯一助かるところは、女湯では大体のお客さんは年配で、子育てが終わったおばさんやおばあちゃんばかりなので、くすくす笑って暖かい目で見てもらえるところだ。
さて、外へ行きたいというので、体を洗ってすぐに露天風呂を目指した。
がらりと戸を開けるとまだ寒い。湯であったまってもいないので、風がびゅんと吹くと裸の体には本当にきつかった。すぐに湯に入ると、私たちは一瞬だけ三人共に「はあ~」と言って、温泉のありがたみを感じた。一瞬だけ。
しばらくすると二人はじゃれ合って、私の目の届くところで遊びはじめた。やれやれやっと落ち着くと思い、一人で浸かっていると、そこへ白杖を持ったおばあさんが入ってきた。
白杖を頼りに外へ出る戸を開けて、何歩も歩いてから、私の入っている露天風呂へ降りる段のあるところの手すりを、手で探り当てた。そして湯に浸かった。きっとここに来慣れていて、何歩歩いたら何があるというのが大体分かっているのだろう。
「こんにちは」
と言うと、私はそのおばあさんに話しかけてみた。すると向こうからも反応が色々と返って来たので、彼女も知らない人とのしばしの会話をウェルカムしてくれているのだなと思って、私たちは話し続けた。
私は温泉に来ると、たまたま一緒になった人たちと話しをしたいと思ってしまう。いや、温泉だけではない。カフェでもレストランでも店でも、たまたま出会った人としばしのその瞬間のシェアの様なものをしたいのだ。
今回は、相手が目が見えないとあって、私は失礼なことを聞いたり言ったりしたくはなかったし、どこまで聞いていいのかもよく分からなかった。周りに目の見えない友達がいるわけでもないから、「よく分からない」というのが本音だ。
若い頃は、怖さが勝手いた。失礼なことをしたくなくて、知らない人に話しかけることができなかったけれど、私はやはり年を取ったせいか、それよりもその人と話をしてみたいという欲求が勝つようになってしまった。
自分とは違う視点を持つ人が、どういう風に世界を見ているのか、それを知りたいのである。
私が思うに、人それぞれ思うところの価値観で、世界を見て暮らしている。地球にはそれこそたくさんの人間が暮らしているけれども、誰一人として同じ世界を見ている人はいないのではないかと思う。
色んな状況や歴史や文化の中で、それぞれに考えたり思ったり、前提としていることは違うから、それをいかに相互理解しあって、シェアできるかということが、重要だ。誰が上でもなく下でもなく、基本的に私は、老若男女、世代を問わずに、それぞれの人が、それぞれの時代で、場所で、喜びや苦しみを経験しながら暮らしているのだと思っている。
それを理解し合えるツールとして、いろんな人の視点を知ることがキーとなってくる。さて、ではどうやったらいろんな人の視点を知ることができるか。
一つのやり方が、知らない人と話すことだ。
アメリカでのストレンジャーとのコミュニケーションが恋しい。
アメリカでは、店員さんだったり、たまたまスーパーのレジの列で一緒になったり、スタバで隣同士になった人と、誰もが会話をしていた。アメリカ人は、見かけから感じるステータスや、性差、又は人種や身体の障害など全く気にしないでお互いにコミュニケーションを取る人が多かった。(もちろんそうでない人もいるから、未だに人種差別云々あるのだけど、私が経験した一般的なアメリカとして)
自分からは普段、選んで友達になろうとしない人が、隣に来ることもある。でもお互いにスマイルするだけで、私たちは同じ場所に立つことができる。知らない人同士でそこから友達になった。あの軽い雰囲気が、私は好きだった。
日本では「一期一会」なんていう素敵な言葉があるというのに、ストレンジャーはストレンジャーだ。たまたま隣り合った人といちいち目を合わしたり会話をする人は少ない。
アメリカのフレンドリーなストレンジャー文化に慣れていると、日本では少し寂しく感じる。
私に言わせれば、人生の中でその時その瞬間、誰かと同じ場所で居合わせたというような事は奇跡の様なことだ。何かの拍子が違えば、一緒にはならなかったはずだから。だから、一緒の空間をシェアしているという時は、その人の考え方や見方を知る、とても良いチャンスだと思う。
だから、日本ではなかなか誰彼関係なく話かけることは無理でも、これはと思ったことがあれば、口にしたり話しかけることにしている。
全く視点が違うと思われる人でも、話してみると、意外に共通点があったりもする。「このラテおいしいわよ、今度試してみて」などとスタバでお互いに言いあったり。全く世代やライフスタイルが違っても、敵対せずに友達になれる要因は必ずある。
騒がしい子供たちを連れての温泉で、彼女の日常を聞けてとても良かったと思っている。普段ママ友との出会いが多い私にとって彼女の話は新鮮だった。
感じる春の冷たい風のことや、石がつるつるしているから掃除が行き届いているはずという、私が気づかなかった彼女の言い分なんかを聞けた。
彼女の世界は、私一人では経験ができない、この世界のひとかけらだった。