第5.5感というようなもの
五感について、考えることがある。
見る、聞く、かぐ、味わう、触る。
私は小さいころから、五感が鋭いほうだと思っていた。なぜかといえば、そう思う場面が多かったからだ。他の人には感じないものをどうやら感じているのではないか、と気付いた時がそれぞれあった。例えばこういうことだ。
音楽を小さいころから習っていたので、聞くことについて敏感だったというのは、他人の目にも明らかだった。聞けばピアノで弾けたし、ポップスを聞いても、メロディやコード以外にもスコアが書けるかもっていうくらいに、色んな楽器のラインも埋没しないで聞こえていた。18歳まで音楽一本で行ったから、それによってますます敏感になったこともある。音楽から離れた今でも、基本的には耳がいいと思う。
匂いに対しても、色々こだわりがあったし、想い出は匂いと関連付けて頭の中にしまってある。こういう人は結構多いと思う。私が若いとき、ずううっと向こうの部屋からのルームメイトのたばこの匂いが、窓やドアが閉まっているのに匂ってきて、真夜中にそれで起きたという伝説があるくらい、犬のように嗅ぐ力がある。
味についても、いろんな食に出会わせてくれた家族のおかげで、子供が普段あまり食べないようなものも食べる機会があったりして、味覚が回りの人より幅広くなっていたと思う。
しかし、見る事については、私はいつまでたっても、敏感だとは思えない。
人が見えていない何かが見えるってこともない。オーラだとか幽霊、妖怪が見える、という話を聞くのは大好きだけれど、自分が見えたことは一度もない。何かの間違いかもしれないけれど、こんなものが、、ということもない。カメラに変なものが映り込んだということもない。変なものだけではなくて、あの人のここにこいう傷があって、みたいな視覚による記憶も基本的にはない。視覚と記憶が密になって頭に残っていない。視力は近眼で悪いし、私はきっと、見ることは弱いのだと思う。
触ることに関しては、いつまでたってもぴんとこなかったけれど、この前、あ、私、触覚に関しても、わりと敏感かもしれない。と思うことがあった。年を重ねるにつれて、手触りで服を選んだり、子供のたぷたぷの太ももを延々と触って嫌われたり、または昔の知り合いの持ち物とか服を、こんな手触りだったなと触覚を伴って、思い出していることに気が付いた。
あそうか、私、視覚以外、敏感なんだ。
人によって五感が鈍感な人もいる。うちの夫なんかがかなり鈍感な部類だ。(往々にして、日本人は敏感な人が多いような気がするし、夫が欧米人だからというのもきっとある)私これってこういう味だね、とかこういう音で、と言っても、「?」というかんじで、一体どうやったらそんなに鈍感になれるのか。私から見えれば、彩りの少ないそんな世界。臭いから!という物でも全くにおわないらしい。ひどい近眼だし、感覚自体が鈍感すぎて、目の前にいる物を探している。そんな人に比べるからますますそう感じるかもしれないけれど、私は敏感なんだ。
で、この間考えたけど、私は、私の世界を形成するにおいて、五感がとても大事。意識的に大事にしているけれど、そんな五つの感覚よりも大事にしていることがあるなって思った。それが、第5.5感だ。
これは、見る、聞く、かぐ、味わう、触る。をちょっと超えるんだけど、第六感までもは行かないフィーリングと言うべきか。第六感といえば、虫の知らせとかいうあれで、直感とか、危険を察知したり、もっといえば、霊能者とかはっきり予言ができるみたいなものだと思っている。第六感をそう定義づけしたとしたら、私の話している5.5感は、そこまでいかない。
ちょっと怪しい話だけど、私の中ではとても信頼していたある人がいて、その人はエネルギーを使うのがとっても上手な人。その人のイベントで(怪しいけど、まあ、読んでください)その場のエネルギーをうごんうごんと、洗濯機のように回した。(怪しい。わかるけど、ほんとそこまで変な嘘とかではないから!)で、これは思い込みといえばそうかもしれないのだけど、本当に場のエネルギーが動いたのがびんびん感じた。あ、エネルギーというのはこういうことか、と体全体で、わかった。その場にいても、何も感じない人もいたから、私は全体で感じる感覚が敏感な方なのかもと結論づけた。
これって、触覚の感覚に多分一番似ていると思うけれど、触覚だけでもないなという体感だった。雰囲気というか、でも第六感までもいかない、感覚。でも、体全体で感じるというところで、耳とか目とかそういうパーツで感じることではないのだ。多分、神社やお寺に行ったときに感じる、あの落ち着くなあと思う空気感とか、鳥居をくぐって、ここから雰囲気変わったなって思うときの感覚。そういうエネルギーをぐんぐん動かされたら、こう感じるものなのだと納得した。
で、私は不思議なこととかオカルトとか好きなほうだけど、ああいうのが経験したり見てしまったりとかする人って、必ず、五感の中の一番鋭いところから経験してる。見る人って見る。声とかを聞く人は聞く。霊に足を握られたりとか感じる人は感じる(触覚)。多分、人間ってみんな、五感の中でも鋭い感覚があって、そこでそういう非日常な現象を感じるときはそこで感じるんだと思う。
で、私の場合、もし一生のうちにそういう変なものを経験したり認識したりすることがあるとすれば、全体的な感触で感じるだろうなと思った。第5.5感で。
そして、そんな変なもの以外でも、第5.5感を日常的に私は使っている、と気づいた。知り合いとか友達とか、仕事で人と話す時に、私は必ず、無意識にその人との間のなんていうか、雰囲気みたいなもの?をどこかで感じている。しゃべりながら、その空気感を味わっている。これが大好物だったりする。この人、こうだよねーとどこかで感じながら話している。
人は誰でも、「あの人」のことを思い出すとき、その人の雰囲気みたいなものを同時に思い出している。匂いとかもあるけれど(好きな人の匂いって忘れられませんよね)、それだけじゃなくて、その人の空気というか。その人自体の空気感と、その人と私が話す時に作られる絶妙な空気。これは、私だけじゃなくていろんな人がやっていると思う。そして、その人のことが好きだったら、その人を思い出すときに、その空気感も交えながら、うふふと思い出していると思う。その人のことが嫌いだったら、その空気感が嫌だ、うざいと思って思い出していると思う。
または、もう過去の存在となった人のことを考えるときも、無意識で瞬時にその空気を考えている。そして、あああの雰囲気をまた感じたいなあ(第5.5感)としみじみと思う。あの人に会いたい、だけじゃなくて、あの感じを感じたいと思っている。または、まだ会ったことのない人に会うのを想像したとき、それを感じたいと思っている。私の場合では具体的には米津玄師だ(ああ、恥ずかしい)。もしあの人と会うことがあったとしたら、、、と具体的に隣に立ったところを想像してみると、そこにどんな空気感があるのか、感じてみたいー!と思う。
で、それって、オンラインではだめなのだ。直接じゃないと、その人の空気をマックスでビンビンと感じられない。これだから、オンラインでのミーティングとかではその人に会ったという感じがしないし、どこか味気ない。やっぱり直接会うと、あの空気を感じると、その人と会ったという感じがする。最近では、仕事でもプライベートでも、直接会うということが減ってしまったからか、これはとても価値のあることのように思える。
感覚が鋭いというのは、動物的だともいえるのだと思うから、これから地球人がもっと進化すると、衰えてくるのかなと思う。きっと原始人はもっと感覚が鋭かったという話もあるし。そう思うとちょっと寂しい。私にとっては五感も第5・5感も、それだけで感じる価値がある瞬間たちだ。結局、音楽をやっていた時も、写真をやっていた時も、こうやって書いている時も、芸術的なことで何か表現しようと思うとき、私はいつもその空気感や雰囲気を表現したいと願っている。誰かに会いたいなと思うときは、あの人のあれを第5.5感でまた感じたいなという願いも込で、会いたいと思っている。結局は、生きているってそういう感覚をシェアしていくことではないのかなとさえ思ってしまう。
だのに、鈍感な夫と結婚したというオチは、、、これで私たち夫婦は、何かのバランスを取っているのだろうか。
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