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不完全の中に
なんだかひどく追い詰められた末に自縄自縛になってしまったのかな。そんな風に感じる、悲しいニュースが続いた。閉塞感とモチベーションアップの狭間で苦しむ人が少しでも楽になれたらいいのに、と静かに祈る。
「乗り越えられない試練はない」と思っていたのに乗り越えられなかったならば、その人は自分に不甲斐なさを感じてよりつらい方向へ歩むかもしれない。
根拠なき万能感や感情に反したストイックさに追い込まれる前に、まわりの目や手と自分を繋げたら荷物がおろせて楽かもね。
──それはある種の解放であって、難しいことでもあるけれど。
急転直下や理不尽なんて、人生には幾らでも起こりうる。どう抗ったところで道はいつか尽きるし、病も怪我もタイミングや相手を選ばずにやってくる。
乗り越えられない試練はないと思い込むのは、単純にこれまでラッキーだったから。同じこの時代にも、生まれてすぐに旅立つ人や、貧困の連鎖にあえぐ人もいる。
世界は理不尽に満ちているし、すべてを美しく解決する魔法は存在しない。
毎回乗り越えられた人だけが、その時点において「すべて意味はあった」と言える。これは生存者バイアス。
でも必要なのはその状況にない人々への視線と手。それは公助に求められるかたちでもある。どうか、どうか必要以上に自らを追い込まないでほしい。
人間には空を自由に飛ぶための翼はないけれど、コミュニケーションという翼はある。繊細すぎるほどに膨大な「言葉」がある。思考があり、感情がある。
目を開きドアを開けることさえできるならば、世の中に完全にひとりきりということはない。もしもコミュニケーションが不得手でも、誰かがその存在に気付くだろう。
孤独であれど、それぞれ孤独を抱える大勢の中のひとり。それぞれ苦手とつらさを抱える人々の中のひとり。
だから、愚痴ったり嘆いたりして荷物をおろすことに罪悪感なんて感じなくていいとわたしは思う。「愚痴ばかりでごめん」「タイムラインを汚してごめん」なんて謝らなくていい。
その言葉が共感となって、誰かの孤独に小さな光を灯すことだってあるだろうと思う。
ひとりで何もかも抱えなくていい。
そんな完全完璧になんて出来てはいないのだ。なんでも出来ると思うならば、それはいつか醒める夢か勘違いにすぎない。
工業製品じゃあるまいし、人間だもの山や谷や凸凹あって当たり前。むしろ不完全の中にこそ、味や個性があり魅力があるはずだろう。それを人は「人間臭さ」と呼び愛おしむのだから。
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