見出し画像

理不尽とタグ、前向き幻想

一昨日からの流れで、にじいろカルテ5話からつらつらと考えた。

【前記事】記憶と語り、そして境界 https://note.com/natsumex0084/n/nd2a44553accc


なにもないの罠

村人たちがそれぞれに重い過去や病を抱える中で、「自分には何もない」という劣等感を抱える看護師の太陽。
通知表は4が並び、常に正しく、無難に生きてきた。看護師としてはよく気がつき優秀。この通知表が4並びというあたりがポイントで、学生時代は特に突き抜けて優秀というわけではない。

自分には何もないと嘆くのは、「キャラ立ちしていない」という部分も大きいはず。より勉学では秀でていたと思われる医師ふたりのみならず、他の村人にもコンプレックスをぶつけていたのだから。

で、そのコンプレックスはどうなのか。

そもそも、村人たちが抱える問題も、朔が妻を亡くした経緯も真空の難病も、本人たちが好き好んで選んだものではなかったはずだ。見えない手につけられてしまったタグに他ならない。
いずれも経験しなくてもいいならば、経験したくない類いのこと。

息子が嫁を置いて逃げた。
うまくいっていたはずの夫に突然去られた。
妻の記憶が定期的にリセットされてしまう。
記憶がなくなって夫を忘れてしまう妻。
子どもを授かれなかった夫婦。

それは「キャラ立ち」なのか。特性として、「いいなあ」とコンプレックスを感じるようなものなのか。
 
 

前向き幻想

患者の立場でも、患者家族の立場でも、「○○なのにすごい」とか「えらい」「強い」という言葉で形容されることがある。
これをわたしは「前向き幻想」と呼んでいる。

イギリスの天文学者アーサー・エディントンが提唱した概念「時間の矢」※を示すまでもなく、時間の一方向性は現実には堅持されている。(※物理学における未解決問題)
つまり、後ろに進むことが出来ない以上、生きている限りにおいては前に進むしかない。立ち止まったり休憩することは可能でも、そのあいだも時間は常に進んでいる。いずれはその流れの中を、かたちはどうあれ「前を向いて」歩かねばならない。

前に進むこと、前向きであることは必然性かつ蓋然性に要求された結果であって、偉いとか偉くないという話では本質的にはない。食わねば死ぬのと同じことだ。

これを自分自身が自信の源として扱うのはいい。
他者から過度に持ち上げられてキラキラ・・・いやギラギラ輝きだすと、御輿に乗せやすい感涙共鳴コンテンツが出来上がってしまう。
病気になった途端に全てを悟りきった聖人賢者として扱われたり、導師のように道を照らす存在として扱われたりするのも、逆に何も出来ない人であるかのように扱われるのもそれだ。

勿論、そうした幻想に乗っかって地位を築こうとするのは個人の自由だ。むしろそれはただで転ばぬ力強さでもある。
いかに現実と乖離していようと、その溝が何らかの手段をもって埋められるならば。
または、本人が肥大するパブリックイメージに耐え、炎上もせず、他者を蔑まずにいられるならば。


タグとギャップの捉え方

「見えない手につけられてしまったタグに他ならない。」
この一文を先に書いたが、タグは基本的に他者がつけるものだ。鏡やガラス、または水溜まり等がないと自分の姿を見られないのと同様に、他者から見える自己の像を正確に把握することはできない。
そこにはかならずギャップがある。

他人がつけたタグと、自らつけたタグ。それらは厳密には一致しない。踏み込んで言うならば、時々相似が見つかる程度のもの。

ただ、人間はしばしば自意識過剰に陥るものだ。青春期には、なおのこと。
想像で作り上げた「なにもない」「つまらない」という自己評価が、他の人にもそう見えているとは限らないのに、とらわれてしまう。
まったく同じ人生を歩む人間はひとりとしていないのだから、少なくともそこには計り知れない未知がある。つまらない普通、または平均などないのだ。

 

普通とは何か 

太陽に「問題だらけ」で「みんな特別だ」と叫ばれた村人たち。
「何もないのがほんとにいいって言われますけど、その若干の上からの感じが!こう何もない系の人間を、どんだけ傷つけていることか!」

実際には存在しないはずの「普通」という概念は、他の村人たちにとっては喉から手が出るほど欲しい「過去の日常」のうちにある穏やかさだ。通り過ぎてその有り難さに気付く。
そこで太陽に対して対極からの怒りをぶつけることもできるはずだが、誰もそうしない。彼もまた悩みの中にあることを、笑ってそのままかわす。

それは酔いのためでも、または既に出来上がっていた極めて良好な関係性のためでもあるかもしれない。狭く小さいコミュニティーの中で家族のように過ごしてきたことで、やり過ごせるようになっている・・・・・・ということだろうか。
唯一嵐が「ほぼ言い掛かりだろ、そんなもん」と吐き捨てるのみだ。そこではじめて「そうだよ」「何なん」という声があがる。

実際のコミュニティー、または家族内であっても、許容できる範囲はそれぞれ異なる。だが病気を特別感に当てはめられたならば、気分を害する人も決して少なくないのではないか。

 

かつてと今と

酔っ払ってぶちまけて倒れる、そんな太陽を「馬鹿」と笑う声に
「そういうのやめませんか!」
と言うのは、妻がまだら認知症の晴信。
「俺、元々こちら側の人間だから」
まじょたくと次郎も「わかる」と後に続く。

その立場にならないとどうしてもわからないことは、ある。
想像と現実の乖離、見聞きしてわかったつもりになるだけでは足りない隙間と埋まらない溝。経験してしまった人と経験していない人の間に横たわるもの。
だがしかし、もう過ぎてきた時間も、このドラマは否定しない。かつての自分をそこに認め、置き去りにはしないのだ。
真剣な悩みを、真剣な悩みとして扱う。悩みの持ち主が抱える重たい気持ちは、その人にとっての真実なのだから。

「衛星写真を拡大すると見えてくる・・・・・・」という「ポツンと診療所」(「ポツンと一軒家」の劇中パロディ)のナレーションがこのタイミングで入るのは、絶妙だ。
しかし、リポーターにまで「普通」と言われた場面がオンエアされるのだった。

 

歪みと補正


太陽に村内放送のDJが打診される。

「充分面白いよ、君は。」
「自分で面白いって言ってる人ほど、面白くなかったりするからね。」
酔っ払って記憶が定かでないとはいえ、マイナスな発言をしていたのはうっすら覚えていた太陽は、それを断る方向でいることを語る。自分は面白くない人間だというコンプレックスから抜け出せない。

それを見逃さなかったのが朔だ。
「屈折はさ、みんなあるけどな、曲がりすぎだろそれ。」
「自分で戻せ。お前ならできるだろ。」

ひとりひとりが既に独特な存在なのに、さらに何者かでありたいと願うのならば、特別に見える他者に叫ぶのではなく自ら動くしかない。
それは朔による、ある種の処方箋だろう。

中二病、青春の病をあらわしたような屈折した歌が村内に響き渡る。
看護師とは思えないリリック。
「よく看護師になれたね。」
真空が呟くのは、そのギャップ。ギャップには、その人特有の面白さや人間味が一際鮮やかにあらわれるものなのだ。
 
何の面白みもない、つまらない、「普通」の人間などいない。
それにいつかきっと気付く。そうして振り返る時、すべてを懐かしく思うのだろう。
「描かれないだろう未来」までをも包み込むような、地味ながら光る回だったと思う。
 
 
 ◇ ◇ ◇

ある事柄を経験したから「老成」していて、経験していないから「未熟」であるとは限らないのが人間。
様々な経験の集合がその人を形成する。感じ方もまた、それぞれ。


 

いいなと思ったら応援しよう!

なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」