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記憶と語り、そして境界
「にじいろカルテ」を視聴。
つくづく、丁寧であたたかいドラマだと思う。そして、つらつらと色々考えた。
人生に起きた一番目立つストーリーは、その人のすべてをあらわさない。
これって大事なこと。
語ることでの殯というのはあり、そこでフォーカスされるのはどうしても起承転結の「結」になりがちだけれど、人生とはまるごとだから。
別に亡くなった人を見る視点だけでなく、闘病中の人や誰かを支えている人を見る視点も「そこ」だけに注がれがちなものだと思う。
それでやけに可哀想と言われたり、時には聖人化されたり。大病したらソロモンの知恵を宿せるのならば、世の中はセイクリッドだらけのはずだ。
そういう中に時折こっそり忍び込む「利用」や「打算」「思惑」からは、静かに離れていたいと思うことはある。
人生ってもっと広い。広くて深くて泥臭い。
まあすべては宿命かもしれない。そもそも選べないし。選びたくなかったこと、抗えないこともある。
「強いね」と言われてもそうかな、なんて思う。強かろうがそうでなかろうが、生きている限り歩みは続く。
強かったり弱かったり、リズムとダイナミクスというグラデーションがあるのが当たり前。人間だから。美しく理想的に創り出された神じゃない。
ずっと一緒にいても、泣き顔も笑顔も見ていても、その人のすべてを知り尽くすことなんてできない。同じように、わたしを知り尽くすこともできない。
だから自他の境界、どうしても越えられないラインを知ることは大事だと思う。優しさとそれは切り離せない。
幻想を抱くことはすなわち悪じゃない。幻想かもしれないことに気付けるかどうか。
わたしは自分に関心を持ってかかわってもらえるのは、有り難いと思っている。いかなる幻想や見立てや、もしくは一方的な幻滅があったとしても、そんなことは当然だから。
すべては見えているように見えているだけなのだから。わかった上で、また口を開きともに語るだろう。
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