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review 藤井 風「帰ろう」にみる救い
17世紀初頭のヨーロッパ。苛烈な宗教戦争をはじめ数々の闘争が巻き起こった、破壊と変革溢れる混沌の時代。それは、死が身近に存在した時代とも言える。
すべては虚無であるとする「vanitas(ヴァニタス)」
その中にあって常に死を思う「memento mori(メメント・モリ)」
だからこそ現在を大切に生きる「Carpe diem(カルペ・ディエム)」
世相を反映した3つのバロック精神は、ポール・セザンヌなど様々な芸術家により主題としてあつかわれた。
時は進み、現代。
キリスト教世界におけるバロック精神と仏教的死生観を内包した、ひとつの楽曲がリリースされた。
藤井 風(Fujii Kaze) - "帰ろう"(Kaerou)
Official Video
失うものなどない、最初から何も持ってはいないのは「虚無であること」
わたしのいない世界を上から眺めるのは「死を思うこと」
最後の一行に示されたのは「今を生きること」
そして仏教的世界観。
四苦、即ち「生老病死」の苦から解き放たれるべく、苦を手離すこと。
思いのままにならないこと=苦であるならば、思いのままにしないこと、つまりあるがままを受け入れることで苦から解放されることが歌詞によって示される。これは大乗仏教的な視点がうかがえる。
「くださいばっかり」からの解放、与えられるものは与えられたものという恩送り。四恩を担った存在として、その恩に報い還元していくさま。
執着を一つ一つ手放していくことによる解放、つまり欲望による苦から自らを解き放つ在り方には、小乗仏教的な視点を感じる。
憎み合いの果てには何も生まれない、ならば自らそれを手放す=憎むことを忘れる。
傷も渇きもわかっていながら、自らその苦を取り除く。
そしてカルペ・ディエム、今この時をよりよく生きることに繋がっていく。
22歳の若さでこの楽曲をリリースする老成ぶりに驚く。
本人は天からのギフトだと語っているが、ならば彼が老いるにしたがって、表現の深みがさらに増していくのではないだろうか。
──今よりも。今でさえこの深さなのに。
生への不安に喘ぐ社会に咲いた、表現。
ペストにも苦しんだ17世紀、そして今。
それぞれにもたらされたもの。
かつてアルフォンス・マリア・ミュシャは記した。
神々が戦う時、救いは芸術にあると。
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藤井 風(Fujii Kaze) - "帰ろう"(Kaerou)
Official Video
MVがまた素晴らしい。
楽曲の豊饒なイメージを限局することなく表現した本作は、一篇の優れた短編映画のようだ。
児玉監督はじめ関わられたすべての方々に敬意と、そして惜しみない拍手を。
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本稿は選択的無宗教の人間によって書かれている、一考察です。様々な視点・受け取り方を限定したり、または否定するものではありません。ご了承ください。
キューブラー・ロスによる5段階モデルのacceptanceとの差異についても触れようかと思ったけれど、冗長になるしやめておこう。
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