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今なら、今はどうだろう
誰かがつらさを口にするたびに、
「やだ、大袈裟なんだから。」
「そんなに騒がなくても、たいしたことないでしょう。」
と言う人がいる。わたしも言われたことが一度ならずある。
そのたびに、つらさはその人だけのものだということ、つらさを表明することが含む幾つもの意味合いなどをさらりと口にしては場をフォローしていた、と記憶している。
でもここ最近は、それだけでは足りないなと思うようになった。
誰かのつらさを目の前にして、何故小さく見積もろうとしてしまうのか。
そこに「実際はつらさが小さなものであってほしい」という感情がはたらいていないだろうか。もしかしたら不幸からの忌避を強く願うほどにセンシティブなのではないかと、可能性に思いを巡らせる。
他人の痛みにさえ勝手に傷ついてしまう不器用な人が、いままたすれ違って傷つこうとしているとしたら?
誰かを悪者にしたり、決めつけたり、配慮がないと詰るのは容易い。
だがそれは「ほんとうのこと」なのだろうか。一個人という、プリズムのような光を放つ多面体を前にして、一方的な断定はどれほどの意味を持つのだろう。
今なら、どうとらえるか。過去にはどうであったか、そして未来にはどのような可能性がありうるのか。
丁寧に丁寧に考えていくと、存外取り巻く世界はあたたかい。そして自分という存在はどんどん小さくなっていく。過去の「わかっていなかった自分」が見えてくる。
「もしかしてすごく心配なのね、あなたがそんなに気負わずとも大丈夫よ。」
その言葉や対話のほうが必要な場面も、ある。自らを含め、誰の感情も蔑ろにしない。
いつかその言葉は自分にも必要なものになるかもしれないのだ。立場も状況も、常に変わりゆくものなのだから。
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