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パーセンテージとパッセージ

最近趣味のツイートの割合が多いのは、完全に故意でのことだ。
世知辛い情報やかたい情報はもう溢れているので、TLに流す分量をかなり気をつけて調整している。
一個人のアカウントがそんなことをする必要があるかどうかはわからない。でも、大切なことだと思っている。

自分のツイートや記事を3日分(出来れば一週間)くらい読み返して、強い語調や不満が以前に比べ明らかに増えていたら気をつけてほしい。
この数字にエビデンスは特にない。近しい人の不調をいち早く察知するための、わたしの経験則でしかない。

ニュースは、これはもう御時世なので仕方ないとは思うが、医療分野と経済分野のどんよりとした話題でもちきりだ。
つまり今はネガティブになりがちな情報が溢れているし、義憤に突き動かされたり過度の不安に陥りやすいと思う。
だからこそ、バランスを取らないと危ないような気がする。主に心が。

そんなわけで、自分の手から他に渡るものについては、ストレス要因となりそうなものを出来る限り丁寧に取り除くようにしている。自分という通路を抜けていくものについてもそうだ。
本来ならば有益なものの括りであっても。
 

情報をあればあるだけ摂ろうとしても、すべてを記憶に留めることはできない。
自然、得ようとしたもののうち何割か、いやたくさんの情報が零れ落ちる。相当に意識的でないと、繊細なディテールは抜け落ち、丁寧につけられた注意書きはなかったことになる。

人間は基本的に見たいものを見るし、ネガティブなことのほうが記憶に残りやすいものだ。これはもう、生存戦略として仕方のないこと。
結果として不満が蓄積されていく。情報が過多ならば、その分だけ堆く不満が積み上げられていく。

不満をそのまま心にとどめておくことは難しい。あちらこちらで放つ。
放ったところで届かないようなやり方ならば、更に不満が増す。届いたとして、その不満は投げつけられた誰かにとって役立つのだろうか。それは正しい現状把握と認識のもと、小さな主語で形作られているだろうか?
特に自分ひとりではどうにもならないことを毎日ぐるぐる考えてしまうようならば、ちょっと距離を置いたり、場合によっては適切な助言を得た方がいいと思う。


共感するのはいいことと捉えられる場面が多いけれど、過度の共感による疲労にも気をつけてほしい。やさしさ故のつらさで壊れてしまう前に、自分自身にもどうかやさしさを。
 
 

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」