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答えなき項垂れの先を考える

いわれなき罪で服役するのは、おそらく誰でも嫌なものなのではないかと思う。
ある職業につく人が殺人で逮捕されても、同じ職業の人すべてを同じ眼差しで見たりはしないだろう。
「きちんと思考を巡らせるならば」

差別や偏見に普段は敏感な人、普段は賢い人であっても、差別や偏見へのハードルを撤去してしまうことがある。

自分がその眼差しを向けられる時は敏感なのに、他者に向けることには鈍感になる。
そこに「それなりの理由」や「大義名分」や「正義感」が加わると、人は時に暴走する。

いちばん怖いのは、制御なき正義かも知れない。
大義名分を伴わぬ戦争がないように。

 
「女はみんな○○だ」と「男はみんな○○だ」は、十把一絡げにして属性でのみ捉えようとしている点で大差ない。
ところがそこに大義名分が加わると、たちまち性差別が正当化されてしまう。
思い出せる限り、大抵の偏見や差別問題に、これと同じような流れを見る。

こうした大きな主語で非難した時、真っ先に頭を垂れるのは誰だろう。
うなだれるのは、絶望するのは誰か。
自分が悪いと思わずに悪いことをする人間か?
それとも罪悪感を感じやすい、つまり常日頃正しくあろうとしている人間だろうか?

体感的に、前者が懲罰なく悄々とうなだれるさまを見たことがない。うなだれた「ふり」くらいはするとしても。

 
正しくあろうとつとめているのに、他者の行いによって責められる人はどう感じるだろう。うなだれたその先は?

本来責められるべき人が改心せず、つまり状況が何ひとつ変わらないまま属性による非難が続けばどうだろう。

反発や反目、または諦めが生まれることはないだろうか。
その先にあるのは?

わたしはそれをずっと、あてもなく考えている。

 
オール論法とノットオール論法の双方、いずれもよろしくない使われ方によって、本来ならば手を携えて状況の改善がはかれる人たちの間に分断が生まれてはいないだろうか。
その言葉の向かう先は「正しい」のだろうか。

正しくあろう、誠実であろうとしながら、しかし絶え間なく投げられる石礫に絶望してその場を辞していく人が増えたならば、残る人のうち誠実ではない人の割合はどうなるだろう。勿論、屈強な人もいるだろうし、それが全てではないとしても。

 
当たり前のことを当たり前に出来る人を褒めると、当たり前なのだから褒めるなという人たちもいる。
では、出来ても出来なくても腐されるとして、そこに何の実りがあるのだろう。評価のために動いているわけでは全くなくとも、人には心がある。感情がある。
熟れる前に落ちる青い実を、幾つやり過ごせばいいのだろう。

ノットオールは思考停止のためとも言われるが、一緒くたにするほうが思考にかかるコストは節約できる。それぞれの人となりや顔を見なくてすむ。
投げかける先が間違っていれば、水蹴りが石蹴りになり、いつか通行人に当たる。

その怪我の責任は取れるのか。それともまさか逃げるのか。逃げ続ける自分を許せるのだろうか?

誠実な人間の立場が良くなり、不誠実な人間の立場が悪くなることで、全体が良い方向に向かう。
光と影が対であるように、それも「対」ではないのか。
オール論法をやめ、ノットオールを不誠実な側に「属性をこえて」提示していくことは何故難しいのだろう。
 

そんなことをまた今日も、つらつらと考えている。
美しく豊かな稲穂も垂れすぎれば、いつか地につき腐る。
 
 

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」