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自意識を引き上げること
わたしはがんサバイバーだ。
これは現実。
がんサバイバーを描いた作品。
これは創作。
がんサバイバーを描いた作品をわたしが読んだ。
ここには、現実と創作の交差がある。
この交差点で、何を受け取るかは受け手のわたし次第だ。
がんサバイバーである他者の話を、がんサバイバーのわたしが聞いた。
これは現実と現実の交差。ただし、片方は抽出されたエッセンスにすぎない。その裏側には、表には出てきていない無数の情報がある。
承前
ミームとスティグマ|なつめ @natsumex0087 #note https://note.mu/natsumex0084/n/nac9b31ac8b83
もしもあからさまにカテゴリー全体が馬鹿にされたような表現があったとして、それに怒りを感じるのはごく自然なことだ。
だが表現に付随する記号(たとえば小道具的なものや舞台装置の一部)について、もしくは話の展開について、創作と自分、もしくは他者と自分をイコールで結びつけることは何をもたらすだろうか。
たとえば、わたしは乳がんサバイバーだが、乳がんにも多彩なサブタイプやステージの違いがある。
そして、同じ乳がん患者であっても感じ方はそれぞれだ。異なるポイントは無数にある。サバイバーの数だけあるといってもいいかも知れない。
だから、ある作品(もしくは話)で乳がんについて触れたからといって、自らと全く重ならないのは当然であるし、逆に見知らぬ誰かと重なっているかも知れない。
勿論、他のがん、いやがんのみならず様々な疾患にもそれぞれ色々な違いがあることと思う。
自分と違うように見受けられたからといって、すべて否定する方向に考えてしまうと、見知らぬ誰かを否定してしまうかも知れないという危険はある。常にそれは感じている。
逆に、自分の経験以外にあるもので日々憤ったり否定しているかといえば、そんなこともないと気付いたりもする。
記号的なものでたとえよう。
現実の医師は常に白衣を着ているわけでもないが(お会いする時はスクラブの方が多い医師もいる)、創作物の医師が常に白衣であれそこに憤ることは別にない。
なかなか切り離せない先入観やそれに基づく感情が、ものの見方を左右している。ものの見方は、本来もっと自由なものだが、人は固定化された自らの見方に傷ついてしまうこともある。
一旦自意識を高いところまで引き上げて、俯瞰で見てからもう一度考えてみること。
直感を蔑ろにするわけでもなく、並立させること。
そうした手順が、自分を常にクールダウンさせる。視界をクリアにする。見易くなる。
傷つきやすさから自分を解放すると同時に、深く捉えて再構成すること。それは他者を傷つけにくい思考へのブラッシュアップとしても役立つのではないかと思う。
そして真に怒るべき時に説得力があるかないかは、そうしたブラッシュアップの有無で変わってくるのではないだろうか。
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