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手綱をギュッと強く握って
Twitterアカウントでは、地震があると注意喚起をツイートしたりリツイートしたりする。10年前は今と同じく関東にいて、被災したわけではない──諸々の影響はすさまじかったけれど。
ではなぜか。あの時既にTwitterしていて大混乱を見ているから。知人には実際に被災した人もいる。10年前の震災以外でも、家族が無事なのかを知ることも出来ないまま、仕事として現地に赴いた知人もいた。災害と自分や周囲がいつどのように繋がるかは、予測できない。予測できないうちにやってくる。
同じ世界に起きている事象は常に他人事ではない。近くはなくとも、巡り巡る社会の中で生きている限り、密かに微かに繋がっている。
どこかの時間軸で自分にも起こり得ることとして常に捉えておくことと、無駄に騒ぎたてないことは両立できると思っている。常にそなえること、気持ちを寄せること、行動も、そして何でも同一視しないことも大事だ。
冷たい視線やスノビズムから遠く離れて、一瞬先の未来を考えることは必要だと思っている。
たくさん喋って、たくさん聞いて、たくさん投げかけて、たくさん受け取って、衝突と反応と化合を享受すればいい。
間違ってはいけないなんて、あまりに窮屈すぎる。誰しも間違えることはあり、躓きながら歩いている。
しかし他人を害しないためにも、喋り出す手前で立ち止まって情報の精査と熟慮をしたほうがいい。精査は難しいことだから、確実なところにまず繋がることを覚えたほうがいい。
では学者ならば、専門家ならば安泰かといえば、必ずしもそうではない。
たくさんの人が、毎日の暮らしと同じ光景の中で、逃げ場もなく毒物にさらされたあの事件。それを引き起こした団体が複数の著名な専門家から持て囃されていたことを、わたしは忘れない。「専門家の知見」に乗じた狂騒の果てに、何が待っていたのかを忘れない。
真っ当だった人がトンデモに走ることもある。それは医療でも、美容でも、考古学でも聞く話だ。素晴らしい肩書きの、素晴らしく弁舌さわやかな人が、不安に揺れたり情報の空白に取り残されたりした誰かに「安心」や「発見」という名のニセモノを渡す。
自分以外の誰か、一個人に、思考を明け渡してはならない。無批判に信じ込んではならない。「これだけを見れば大丈夫」と言われたら、まずその真意を疑え。そう強く思う。手綱は自分で握り締めるものだ。
他者の知見は拡張メモリであり、個々は膨大なスロットのひとつにすぎない。様々な学説、その中のどこが主流なのか、亜流傍流に見るべきところはないのか、異なる分野からはどのように眺められるのか、信憑性が高いとされているのは何か、それらの根拠は何かを見極めなくてはならない。骨の折れる話だ。そうしたところで、新しい発見が覆していくこともよくある。個人で追うのは大変だ。
そのために、膨大な拡張メモリが予めよく精査され、莫大な手間と予算とエビデンスがたっぷり積み重ねられてきた公的機関の情報を利用すればいい。どのみち税金から生み出されたものでもある、遠慮は要らない。存分に利用して、思考のベースにすればいい。そしてまた手綱を握る。アップデートの繰り返しが、少しやりやすくなる。先人たちの叡智を仰ぎつつ、一個人や一団体への依存はしない。
自らの主導権を自分で保ち続けることは、本来面倒くさく、地道なこと。そのつまらなさ、しんどさの中にこそ、掴むべきものはあるような気がしている。
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