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かわいがる、と、かわいがり

本当に気が重くなるニュースだった。
あろうことか人を導く立場にありながら、ともに働く同僚に暴力をはたらいた複数人の話。

いや、この前置きはちょっとおかしい。

人を導く立場であろうがあるまいが、どのような職業にも良からぬ人物というのは潜んでいる。
聖職だからといって、必ずしも聖人ではない。これは、大前提として頭に置いておくべきことだ。
そこを見間違うと、ろくでもないバイアスから、無理やり擁護するような言説を許してしまうことにもなりかねない。
 

 ◇ ◇ ◇
 

害をなしたという人が、「かわいがっていた」と謝罪文で述べていた。
このかわいがるという言葉を別の意味で捉えた向きは少なくなかったようで、とある新聞でも所謂かわいがりについて書かれていた。

所謂かわいがり。

相撲界からだっただろうか。最初は隠語として広まったものが、今は辞書の二項に載るほどにまでになってしまった。
相撲界でも、本来は弟子や後輩に目をかけて厳しい稽古をつけるという意味合いで使われてきたものだ。
それが集団暴行や死亡事件を経て、「かわいがり」イコール「暴力」になっている。

他のエントリーでも書いたが、言葉は変容していくものだ。
「かわいがり」は度の過ぎた行為、いや悪行により「悪いイメージの言葉」へと変質してきている。
悪いイメージがついた言葉は、元々の意味合い(辞書で言うところの一項)を越えてしまうのだろうか。長い長い時間の中では、そんな疑念が現実にならないとは限らない。

では、被害者が辛い思いをしたという事実があれば、例えばこの言葉を禁止ワードとして世間から隠してしまってもよいのだろうか。
本来ならばこの時代においてはポジティブな言葉であるはずのものが、一部の悪用によって消されてよいのだろうか。

わたしの答えは、明確にノーだ。
悪用する側は、かならず別の隠語を作り出す。もしくは、別の言葉を転用する。非難されるべきは言葉ではない、悪行そのものである。
その本質から目をそらすことは、あってはならない。言葉がなくなれば問題が解決するのならば、とっくの昔に先人が解決していただろう。

 
 ◇ ◇ ◇
 

「かわいがる」の元である「かわいい」は、元々「不憫」「気の毒」を意味した。「かわいそう」と同根である。
「かわいい」自体が、もう既に変容を経た言葉なのだ。

言葉は常に変容する。その中で新たに生まれた意味を伴い、時にはそれが優位となって次の時代へと受け継がれていく。
そんな言葉を指して、生き物のようだと形容する向きも多い。
他者を完全にコントロールすることが出来ないように──出来たらそれはマインドコントロールでしかないが──言葉もまた、自由とともにあるのだ。そう、生き物のような多様性を秘めて。
 

 ◇ ◇ ◇
 

今を生きる人間として出来ることがあるとするならば、それは一部で悪用された言葉を隠したり狩ることではない。
そして、ここがとても大事なのだが、悪用されてしまった言葉についてやたら声高に語ることでもない。口角泡を飛ばして広場でやいのやいのと糾弾すれば、それは「悪い方の意味」をいたずらに広めてしまうことに繋がるからだ。

だからこのエントリーも、少なからずそうした矛盾を孕んでいるのかも知れない。影響力のなさで相殺しているだけだ、きっと。

悪用された意味合いが一項を越えないように、世の中を少しでも良くしようと心を配る。二項ですらなくなる日は、来ないかも知れない。だが、それを目指すことは出来るはずだ。
そのために取れる良い手段はきっと過激なものではなく、本来の意味をやさしく広めることにあるはずだと、わたしは思う。

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」