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same thing
「素人は余計なことに口出しするな」「よく知らない分野に言及するのは悪」という内容の話を度々する人たちが、全く畑違いの話をまるで何もかも見てきたかのように話すのを見て、これには流石に辟易とした。
自分自身のことは見えない、とはよく言うけれど・・・・・・。
他人の口を塞ごうとするとき、自分の口も塞がれてよいという覚悟をどれほど持っているだろうか?
人の口に戸は立てられないし、沈黙は金なれどそこには自由も欲求もあろう。
開くことから対話ははじまる。
対話することから相互理解ははじまる。
しかし、それは完全ではない。
完璧に理解しあうなんてただの幻想で、だからこそ互いを知ろうと「努力する」し、知らなくていいことは「線を引く」のだろう。それを適切に見分ける人こそが「大人」だとわたしは思う。幾つになってもこれが出来ない人間はいる。
まったく理解不能ならば、それは双方が余程合わないか経験値が全然足りていないだけで、諦める道なんて幾らでもある。
以前にも書いたように思うが、分析にはそれなりのデータ量が要る。
ちょいと見聞きした程度の「個人の経験談」を全体に当てはめることは、正しさとの大きなズレを生じやすい。本来描写されるはずの全体像は見えてこない。
そして「全体像」なんてものは、本当は容易に見えるものではないのだ。平均で語るというありふれた手法が相応しくないイシューなんて、多分掃いて捨てるほどある。
様々なパターンがまるで幕の内弁当のように詰め込まれた実像のうち、そのどこか一部分に「フォーカスを当ててしまう」。
自分が「フォーカスを当ててしまっている」自覚を持てるかどうか、それがあたかも世界共通の真実であるように錯覚してはいないか。
同一のパターンとして扱えるほど、人は画一化されていない。人間の集合体も、幾分の共通項があるというだけで均一化されたものではない。
全体像が掴めるようになればなるほど、簡単な言葉では括れなくなる。
辟易としたわたしも、世界のほんの一部しか見てはいない。ピンホールを開けた程度の僅かな穴から、垣間見ているに過ぎないのだ。
嘆息しながら、「分析」を見やり、そっと離れる。
翻って自らの行いについて思案する。
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