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推せるときにも立ち止まる

 なんというか、アーティストを追いかけている人たちのストイックさが、ここ数日色々な意味で目に入る。

 誰とかどれとか言うわけではないけれど、「最近熱狂的な気持ちが薄れてきた」とか「すべてを追いかける気持ちがなくなってきた」とか呟く人がタイムラインに増えたような気がするのだ。
 でもそれは多分当たり前のことで、たとえば街中で「今日が20000日記念だね!ウフウフ」といちゃつく老夫婦を見かけないようなものだろう。
 キャーキャー騒いでいるから気持ちが強いとか、誰より楽しめてるとはかならずしも限らない。時間が経ってもそこに在るということにも意味があるかもしれない。むしろ自分を保ちつつ「しょーがないなあ」「まったくもう」なんて笑いながらも、長く続いていくものだってある。
 間があいても、ふと思い出したらそれも素敵かもね──そういう、ある種のテキトーさやゆるさがクッションになるはずだ。

 悪い想像をしてしまって、それを必死に打ち消して、どこか別の古い引き出しから「こんなのありましたけど!」なんていいこと探しをはじめて、それを拾っては広めて謝って感謝して、いつもくるくる走り回ってる生真面目な人が多いな。そんなふうにも感じた。
 だが、元々感性はその人自身のものだ。誰かに解釈を押し付けられる類のものではないし、いちいち個人が奔走しなければならないほどに魅力がないのだろうか?自らが内包する信頼感の涸渇にこそ、目を向けたほうがいい。
 適度にイージーじゃないと、いつか疲れてしまうように思う。疲れるくらいならまだしも、それが重なることで完全に楽しめなくなるかもしれない。

 ついていけないなあとか、おいてけぼりだなあとか、そんな気持ちを抱えた人にこそ「その気持ちを慌てて否定しなくても大丈夫だよ」と言ってあげたい。
 自分が自分の味方でいられないのは、きっとつらいはず。
 それに心理的な距離なんて離れたり近づいたり、幾らだって変わりうるものだから。日常のせわしなさだったり、つらさだったり、そういうものからほんのひとときであれ自分を解放してくれるはずのもので悩み苦しむのは切ない。そんなに思い詰めてストイックにならなくていいのに、と思ってしまう。
 ゆっくり食べてゆっくり消化したって、食べるメニューを選んだって、きっと誰も怒らないと思うのだ。主食に米を選んだり、うどんを選んだりしていい。蕎麦でもパスタでもいいのだ。
 食べたくないものを無理やり選ぶ必要もないのと同じように、合わないと感じた表現を無理やりに賛美する必要などないのだ。そもそも表現の受け取り方、受け止め方なんて体調ひとつにだって左右される。本意がどこにあるのかは、作者にしか知り得ないことだ。

 自分は完璧さを求められたら息苦しいのに、他者に対しては「完璧であることにしようと奔走する」なんて、ちょっと非対称がすぎるだろう。
 なんでも受け入れなくていい。真似をしてもその人にはなれない。周りの顔色を窺わずともいい。飾らない自分を抱えたまま、自分のペースで、真っ直ぐに歩いていけばいい。それもまた、執着しないということ。
 たのしいことは、楽しく。深い川はゆるやかにゆく。Still waters run deep.

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」