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透明、ではなく

 「本当に困っている人」という言葉がたくさん飛び交う中、「本当に困っている人」が見えていない──というツイートを読み、深く頷いた。

 「本当に困っている人の見えなさ」問題、世の大半の人々は何だかんだ「衣食住+つながり」が確保できている人しか視界にいないからではないか、という疑念がある。
 「ちょっと前に話した人が亡くなって溶けていた」「どうやって病院に行ったらいいかわからない」みたいな話とそうそう出くわさない世界。

 日本は階層社会で違う階層とは会わないのだ、という言葉も見かけた。いや、少なくとも下層への道は階段状ではない。思うよりもずっとシームレスだ。そして上がろうとする時そこにあるのは、階段なのか壁面なのか。(この問題については「カフカの階段」という比喩が有名だ。)

 困窮した状況にある方々と、やりとりをする機会がある。
 かつては定職についていたが仕事を失った方、病気によって場を失った方、ご家族との折り合いが悪かった方、事情は人それぞれだが所謂「ごく普通の暮らしぶり」だった人が少なくない。
 では何故見かけなくなるのか。本当に見かけていないのか。
 見えていてもさしたる関心もなく通り過ぎているのではないか。もしくは、自らの生活に追われて社会の様々なことには目が向かないのか。

 知ることがない。だから困窮が「選んだ生き方」や「自由」や「暮らしの工夫」に見えてしまう。同じことは生活困窮のみならず、ハラスメントや硝子の天井などについても言えるかもしれない。そういうものが時折あたかも自然なことであるかのように、または理想的に描かれてしまう。そして定期的に掘り起こされたり見つかったりして、炎上する。
 でもそれもその時だけ。花火のように、瞬間の炎として消えていく。話題になってもすぐ下火になるのは、当事者が「いるのに」「見えていない」から。そしてまた繰り返す。

 透明ではないのだ。確かな輪郭を持ち、それぞれの歴史や経緯がある。声、手、眼差しがある。
 見ようとするのだ。意識的に、同じ時間軸で何が起こっているのかを。変えたいと願わなければ、いつだって変わらないことばかりなのだ。「社会人」という言葉が含む意味を、時々強く噛み締める。モノやコトの選び方に、その視点を染み込ませる。
 影響力のない場所でも、何度でも呟く、何度でも書く。何度でも。

 

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」