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表裏/中間色
感染症禍が落ち着くにしたがって、総括的な記事を目にするようになってきた。まだ何ら終わってはいないものの、区切りとして纏めるのは中間地点でもさほどおかしいことではない。
社会現象含めて書かれたもの、主張の色が濃いもの、少しずつ読み進めている。
その中で、反ワクチン活動に身を投じ、後に陰謀論から抜け出せた女性の記事に行き当たった。
記事の内容については、著作権やプライバシーに配慮してここでは言及しない。こうした「気付き」の文章というのは、度々記事になる。
気になったのは、Twitter上でその記事に対して石礫を投げるかのような辛辣なコメント群だった。
すべてを知る人はいない。ソロモンの知恵も千里眼もありはしない。白黒だけでは足りない、水戸黄門的勧善懲悪でこの世は出来ていない。
間違ったり戸惑ったり彷徨ったりしながら生きるのが人間だとわたしは思う。種々様々なジャンルの数多のイシューで、日々躓きながら生きているのだ。それを恥ずかしいと思うことは重要ではない。
そもそもこの2年に起きたことは、未曽有の事態ではあった。世の殆どの人々は、確たる正解がない中を、ストレスを抱えて進んでいたのだ。霧の中の小舟のように。
道を誤った、そのせいでもしかしたら誰かが著しい不利益を被ったかもしれないということを重々胸に刻んで、アップデートしていけばいいのではないだろうか。
一個人にそれ以上の何が出来るというのだろう。
一番恐ろしいことはむしろ、「自分は絶対に間違えたりなどしない」という根拠なき自信だ。それは重大な間違いをおかした時に気付けず、踵を返すチャンスを失う原因になる。
反省し、それを公に示した他者に追い討ちをかけるその裏に、絶対的な自信がありはしないか。それとも義憤と綯い交ぜの鬱憤晴らしなのか。石礫のようなリプライの中に次の「間違い」の素が潜んでいるようで、時々不安になるのだ。
誰にだって黒歴史はある。ただ、医療と福祉に関することは注意が必要ということは広く知られるといい。迂闊に発信すれば、時として人命に関わるのだということも。
また間違いの「発信」によって被害をうけた最前線の人々は、憤るのもまったく当たり前だと思う。そういう余計な労苦が社会全体に与える影響というのは、今後検証され語り継がれていくべきなのではないかと思っている。ひとりの人に向けられる憎しみの形ではなく、誰もが踏み外すかもしれない落とし穴として。
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