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呪いなんかいらない

「女の子だからこの色ね」
「年上なんだからあなたが謝りなさい」
「いやらしい誘いも笑ってやり過ごすのが大人」
「メイクしないと恥ずかしくて外を歩けないよね」
「30過ぎて女捨ててないの?」

世の中にはたくさんの呪いがある。
多分、男性もそうだ。
彼女がいないなんて、とか。
給料がいかほどだ、とか。

見えない呪いの鎖をたくさん巻きつけられて、巻きついたまま生きている。

でもそれ、要らないよね。
外しちゃってもいいんじゃない?

呪縛に満ちた時代は、徐々にではあれ終わりの色を見せはじめた。
metooやkutooのように、鎖を断ち切る流れが次々に生まれた。
それは素晴らしいことだと思う。

患者は、どうだろう。

がんだから。
がんになったから。
そんな鎖が、まだたくさんある。

身近な人たちががんになって少し見えた鎖が、自らががんサバイバーになった今、とても鮮明に見える。
わたしは無意識のうちに、それを断ち切るように歩いてきたのかも知れない。

「キャンサーギフトを胸に、一日一日を感謝して生きて」
それは他人に言われることではないかな。
「泣かないのは強い」
泣き暮らすのが当たり前だと思ってた?
「自分のことだけで精一杯のはず」
周りがみんな何かしらの患者だからね、それじゃ生きていけない。

がんを患えば、それがどんなに初期であれ、朝から晩までドラマティックに嘆いているはず──といった幻想。
ショックでそうなる人もいると思う。でも、そういう人ばかりではないとも思う。

逆に「もっと強くなれる」と言われて困っている人もいるかも知れない。
「泣いていると悪化する」とか。
「笑ってさえいれば必ず良くなる」とか。
感情を縛り上げることで治るなら、医療業界はとっくになくなっているはず。


「こうあるべき」
「こうあるはず」
「これはもう出来ないでしょう」
思い遣りから生まれたものかも知れない。
でも、そんな鎖は要らない。

病気になっても、わたし自身が違う生き物になるわけじゃない。
出来ないことは、ある。
でも、変わらないことだってたくさんある。

誰かの「こうあるはず」に縛られて、自分を雁字搦めにする必要なんてない。
辛いならばたくさん泣いていい。
愚痴を言いたかったら言えばいい。
笑いたければ笑っていい。
怒るのも喜ぶのも、思いのままでいい。
ありたいように、あればいい。

ステレオタイプという呪いは要らない。
みんなひとりひとり違う。
だから、誰かの書いたものだとか、誰かの残像にとらわれなくてもいい。
それが自分にすっかり当てはまると思い込む必要など、最初からないのだから。

辛いのに誰かの闘病ブログを読んで一喜一憂しなくてもいいし、SNSが地味でもいい。
誰かに惑わされることなんてない。
自分で鎖を生み出さなくてもいい。
王様が本当は裸だったように、見えない鎖はただの幻想に過ぎないのだから。

強いと言われたら、強くあらねばと無理をするかも知れない。
弱いと言われたら、自らの弱さを責めるかも知れない。
でも大丈夫、「強さ」と「弱さ」は共存する。

鎖なんてなくても、目の前にきちんと存在する無数のプロフェッショナルを信じて、わたしはわたしの道をしっかり歩く。
その先がどんな道だろうと、道は道だ。

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」