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ものを書くということ
正確に何かを伝えようとすればするほど、言葉はやたら増殖をはじめてしまう。呆れるほどの饒舌、その中で本質はむしろ届きにくくなり、膨大な解説はその全貌を掴まれないまま虚空に消える。
では言葉を削れば良いのかというと、これはこれで著しい誤読を招く可能性を孕む。伝えたいことが上手く伝わらないまま、好き勝手に消費されてこれまた消えていく。
消えないようにするためにと熱量を加えれば、インパクト勝負のキャッチコピーめいた何かが残るだけ。
かくも言葉は難しい。
◇ ◇ ◇
いちばん怖いな、と思うのは、本だ。いちばん好きであるのと同時に、いちばん恐ろしいものだとも思う。
文章書きが仕事の一部ではなくなり、ただただ読むだけに戻り、そしてサバイバーとなった今つくづく思う。
書籍は怖い。
とっくのとうに葬り去られたような古い言説や、出鱈目が過分に含まれたシロモノでも、公衆の面前に鎮座出来る。
図書館で、待合室で、ふと訪れた古書店で。
いつ出会ってしまうかは、誰にもわからない。
その本が誰かの命を縮めてしまうことだって、ある。
◇ ◇ ◇
逆に、本が誰かを救うこともある。
溢れる情報、美しい文体、知性の結晶にコネクトする喜び。
その中で何が真実であるかに気付くことがある。
緻密に、嘘がないように、見知らぬ無数の「誰か」を思いながら紡がれた糸で丹念に織り上げられたそれが、誰かの心を包み温めることがある。
雨垂れが氷を溶かすように、その表面温度は必ずしも高くなくていい。
書く人の心が熱くても、文章化されることできちんと適温まで下がる。優れた書籍には、そういうものが少なくない。
派手さはなくても、そこに真摯さはあるのだ。
◇ ◇ ◇
ものを書く以上、それがどんな性質のものであれ、見知らぬ誰かを傷つける可能性があるということに向き合わなければならない。
何らかの形を伴えば、いつ誰の目に触れるのかはわからない──たとえばこのnoteもそうだ。検索から、それとも何かの拍子に目を落とすだろうか。
その人にとって心地よいかどうか、意図が正しく伝わるのかどうか、そして書かれた内容は時を経ても正しいのかどうか。それを予め知ることは出来ないのだから、たちが悪い。
せめて、自分の手による文章は、嘘偽りがないようにしたい。
だからといって自らを殊更詳らかにすれば、必ず身近な誰かを傷つけてしまう。
そう思って「当たり障り」に神経を尖らせ、細かい情報を省いていくたび、言葉は有り体なものになっていく。いつしかその内容は痩せ、衣を剥いだエビフライのように旨味がなくなってしまう。
◇ ◇ ◇
果たして書く意味があるのだろうか。自分のためだとしても、そこに意味があるのか。
そう自問しながら、今日もわたしは書く。
わたしの視点は、わたしにしか存在しない。
書き付けること、それ自体に僅かばかりでも意欲があるなら、文章を通して内外と真摯に向き合おうと出来るならば、今はそれでいい。
いつか振り返って、青いな、と笑えたら──それはそれできっと、ささやかながらひとつの意味を為している。今は、それでいい。
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