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接点と温度
何か大きなニュースがあるたびに、「美しい絆を信じている人」と「糾弾を求める人々」がぶつかっていて、わたしのような低温動物にはなかなか刺激が強い。
幼児的万能感をとうに手放してしまったので、「膝を突き合わせれば絶対に心からわかりあえます」みたいな話になるとたちまちその輝きに目潰しされてしまう。小学生の頃には「完全な理解などない」と思っていた(流石に口には出さない)ので、ささやかな羨望はあるが自分には到底無理な在り方だ。
異質なものを排除しようとするのは人の性なのだろうけれど、断片的な情報ですぐ盛り上がれる人も凄いなと思う。何を食べたらその熱量が生まれるのだろう。低体温が治りそうだ。
馬鹿にしているわけではない。そうやって熱くなれるというのは、動機はどうあれ感情豊かということなのだろうと思う。
わたしはといえば、人間のすれ違いなんて大半は「接点が合わないこと」くらいに思っている。
ひとつの物事に対峙するとき、接続するアクセスポイントはきっとたくさんある。ポイントごとにフィルターがかかる。偏光で色を変える。
立体として喩える向きもあるが、わたしもそんな捉え方だ。
たまたまアクセスした場所から得られるものが、似通っているかそうではないのか。その違いで、見えている情報から想像される全体像がまったく違ってくる。
年齢や経験を重ねると使える接点、もしくはアクセスポイントが増えたりする。
丹念にそれらに繋ぎ、情報を得て、自らの内で処理をする。拡大と縮小、縫い合わせ、ピント合わせを繰り返す。
そうすると、一面からしか捉えられていなかった物事の様々な情報が、うねりを伴ってやってくる。
そうやっているうちに気付く。何度でも気付いてしまう。
すべてを知ることは出来ないのだと。
その間もファンモーターはどんどん熱を冷まし、最早観念したわたしは融合も断絶も選ばない。いや、選べなくなる。
情報とわたし、わたしと誰かの接点は、ふとした瞬間に繋がってしまう。
断絶していたと思い込んでも、思い込もうとしても否応なしに気付きは訪れる。
それは希望であり絶望だ。
せめて慮ることの許されること、知ることが出来ることはつぶさに見ようと試みながら、時に距離を置いて、そっと時間を重ねる。
そのまま距離が開くのか、ふいに繋がるのかはわからない。
繋がったとして、それはほんの小さな接点による不安定なものだ。
我ながら冷たいとは思う。
この冷たさを抱えて生きていくのだろうな、とも。
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