色は多分、ついていないから
最近ちょっと、もやもやすることがある。
純粋に音楽を楽しんでいる時に、「○○は容姿がいいからね」とか「黄色い声援」などという括りにポイッと入れられてしまう、アレだ。
女性だから、わりと冷ややかに捉えられてしまうのだろうか──と思うも、男性も「野太い声援」と言われてしまうことはあるわけで。多分、純粋にアイドルのポップソングを楽しんでいる人たちの中にも、同じような違和感を覚える人はいるのだろう。
でもこれ、見方によってはお手軽なセクシズムであったり、ルッキズムであったりはしないのだろうか。それからエイジズムと・・・・・・そんなことをつらつらと考えては、周りに浮かぶもやもやを眺めている。
容姿や属性とはまったく関係なく、純粋にいいものはいい。
見た目でファンになったことは、わたしはこれまでない。そもそも物心つく前から音に親しんできたから、音以外の要素は後回しでしかなかった。
ファッションと音楽の結びつき、表現の拡張性とその素晴らしさに気付いたのは、年齢が二桁に乗る頃のことだ。総合芸術は素晴らしい。ビジュアルワークはプロフェッショナルたちによる技術の結晶だ。尊敬する。
しかしその後でもなお、音楽人を評価しようとするとき、主となるのは音楽だった。
勿論、楽しみ方や入り口なんて人それぞれだから、容姿や属性から楽しみを見出すことは当たり前にあることと思う。その楽しみ方は、また尊重されるべきだとも思う。どのパラメーターにどれほど重きを置くかは、自由なのだから。
「人それぞれ」という部分が勝手に削り取られて棄てられてしまうことに、もやもやしているのだ。
容姿の良い(とされる)異性のアーティストを応援しているからといって、性自認がどうであるかはやはり人それぞれだろう。
しかし、多様性の重要さがこれほど広まってきたというのに、残念ながら音楽をとりまく会話や記事の中には「○○が好きなんだ、格好いいもんね」といったステレオタイプの視線が満ちている。
「男ウケ」「女ウケ」「子ども向け」「オバサンファン」「オジサンが回顧する時に」
マーケティングの視点からは別として、受け手側がこうした言葉でカテゴライズしてしまえば、作品に生えた羽根はむしり取られてしまう。
ただでさえ、聴かれる機会は均等ではない。プロジェクトにかけられる予算といった規模的なもの、またはタイミング、様々な要因がそこにはある。
サブスクリプションで新たな可能性が生まれ幅は広がったものの、すべてのジャンルにそれが通じるわけでもない。
さらにカテゴライズしてフィルターをかけてしまうことは、一時的な話題性になりこそすれ、長期的にはアーティストや作品にとって幸せなことではないはずだ。
まだ知られていないものに光をあてていく音楽番組が、かつては色々あった。いまもあると思う。
ずっと、そういうものが好きだった。
フラットに、耳と感受性を研ぎ澄まして選んでいくのが好きだ。それは実際、役にも立った。紹介する側に立ったとき、心から良いと思ったものと「誰かが心から良いと思ったもの」を、等しく大切に扱うことができるから。
そして誰かの心にも、きっと作り手が意図したもの以外は透き通った音が届くことがあるのだと信じたい。
受け取った人自身がその音楽に記憶という色彩を加えて、大切にしていけるように。