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カナリアの背中
SNSで怒るのはみっともないとする人たちは、怒ってくれた人たちにタダ乗りしていないか──。
そんな言葉をThreadsで見かけた。最近、同じようなことをよく考える。
このところ、仕事上でズバズバとモノを言う人とのやりとりが続いた。僻みや妬みのない、裏表を感じさせない人なので非常にやりやすい。意見をはっきり言う人だが、決して押し付けがましくはない。
こういう人がいるとスッキリするな、と感じた反面、それはわたしが担うべきものの一部を背負わせているのではないかと思ってしまったのだ。代弁者になりたいなんてひとことも言われてなどいないのに、わたしはこの人の前で思考を開陳し、言いにくいことを託すに止まってはいないかと。
かたち作ってきたものの結果は、いつも少し遅れたタイミングであらわれる。だから決定的になってしまう前に気付ける人が、時々必要になる。
炭坑のカナリアが鳴いているうちに気付かなければならないのに、たくさんの人がカナリアを煩いと言ってきた結果が現在位置なのだろう。よく言えば平穏だが、表面に平穏を纏った事勿れ主義の存在も感じる。
発言する人は、まわりから見たら悪人の立ち回りになりがちなのだ。叩かれたり罵られたり、嫌われたり。だから本当は誰であれ言及したくないし、言うとしても陰で見つからないようにひそひそと。
わたしはどうだっただろうか。
わたしは、そういうのはもう嫌だなと思いはじめた。世渡りとしては下手だし馬鹿なのかもしれなくても、嘘つきの顔で笑っていたくない。
かつてもそういう立ち位置をかってくれていた大先輩がいた。あの大きな背中にいまはとても感謝している。
色々なことをしっかり考えて、専門知識もきちんと調べて読み解きながら自分の意見を言っていく潔さの中に、わからないことはわからないと認める強さと謙虚さが見えると、とてもグッとくる。
だいたいのことは言い切れやしないと知っている、そういう人の言葉選びに、とても惹かれる。
先週は、あらためて考えさせられた一週間だった。
女性にだけ名刺を配らなかった取引先の人がいて、色々と芳しくないようだった。そうだろうな、と思う。困ったときにだけいい顔をされるのはなんだか違う。そういう振る舞いは意外とみな醒めた目で見ているもの。
「新規顧客の開拓」は勿論、コストを考慮すれば「顧客の離反防止」と「休眠顧客の掘り起こし」はビジネスにおけるセオリーだが、急に焦ったところで人の心はかならずしもセオリー通りには動かない。彼にはもう、誰も直接何かを言うこともないのだろう。早い段階でチクリと諭した人でさえ、だんまりを決め込んでいた。
これからいかに拡大展開していくかという状況であっても、または袋小路の状況であっても、基礎基本のほつれを点検して直し、地道に洗練させていくこと以上に大切なことはあまりないのではないかと思う。そこに気付き、フレキシブルに進む方向を微調整できる人はいつだって強い。そうできない人との差がついていく。
殆どの場合、ズレや歪みが結果として露呈するよりもずっと前に、その原因は生じているのだから。
ライバル社の担当者は早々に変わった。変化を恐れない人を見て、この人は真剣だし本気でできる人だなと感心したりもした。
しなやかさは強さだ。
そういうことを電気が走ったように思わされるとき、翻って自分の小ささを何度でも再確認するし、一方でとてもゾクゾクする。勿論、いい意味で。
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