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名前をめぐるもの
今よりももっとずっと前の話になる。それなりに名の通る会社にいた頃の話だ。
わたしはまだ所謂ペーぺーの新人で、なんなら卵がようやく割れたくらいのひよっこ。
プロジェクトの中に、えらく陽気なオジサンがいた。世間的には「先生」と呼ばれる類いの人だ。外部の特殊な物書き、といったところ。
見た目はいかついが、カラオケでは率先してネタ曲を歌うようなムードメーカーだった。
そのオジサン先生がある打ち合わせの後、ひょいひょいと手招きをした。
「なんでしょう?」
話がまとまったあとで若干気が抜けた顔だったろうわたしに、先生は一枚のチラシを差し出した。
「これよ!これ知ってる?」
見ればサプリメントの写真に、鮮やかな謳い文句。ははーん、これはあれだな。
「いやー、先生飲んでらっしゃるんですか?」
外向きに言葉を散らす。こっちじゃないぞ。
「そうそう!飲んでんのよこれ。いいんだわー。」
「へーすごいですね。」
ノリは崩さず温度を下げる。
「でさあ、これをキミが買うでしょ。いいもんだから、他の人にすすめたくなるんだよね。」
グイグイくる。会議百戦錬磨だけある。
「いやあお高いんでしょ?」
テレショップ定番のかわし方だなあ、これ。まずいぞ。
相手も強者、この時点でサプリメントに興味がないと見るや、おもむろに調理器具と浄水器をプレゼンしだした。
(いや、わたし仕事中なんだよな。)
時計の針が次の予定に近づいている。よし、逃げるぞ。
「すいませーん、ホント申し訳ないんですけどもこのあと詰まってるので、この話またでいいですか?」
すると先生の目がキラリと光った。
「やっぱりなあ。キミは難関だと思ったんだよ。」
「いやほんとすみませーん。」
「いいのよ、オレもウマい話だったの。本当はわかってんでしょ。」
思わず吹きそうになるのをこらえる。
「世渡りはどうか知らんけど、キミはそれでいい。わかってるヤツがいないとダメなのよ。」
マルチを持ちかけた先生が、いま何をしているかはわからない。担当していたものが後年になって外されたこと、その経緯については小耳に挟んだが、いまとなってはどうでもいい。ただお元気であればいいなと思う。
あの時わたしが購入していたら、おそらくそこから直接得る利益のみならず、社名や仕事内容が利用されていたことだろう。
そしていつか、うっかり信用に関わってしまう。
わたしだって、それくらい察しないわけではなかった。先生は多分そんなわたしの思考を見抜き、退いたのだ。
自らをとりまく幾つもの側面、そして名前。
お互いに助け合うことはあっていい、素敵なことだ。ただ、利用されるのは時として大変な危険を孕む。もし個人的に有名だったなら、尚更だ。
あの時のチラシは、生きた教材だった。受け取らなかったけれど。
◇ ◇ ◇
これはまったくの余談だが、このあと2度ほど、異なるシチュエーションと異なる相手で似たような勧誘をされたことがある。
余程カモに見えるのだろうかと少しばかり心外な気持ちだったが、何かに縋りたいような状況にある人ならば純粋に信じ、また純粋に広めてしまうかもしれない。
2回目に勧めてきた人は相当ご執心であったようで、断ったわたしを邪険にもしたのだが、胴元が逮捕により潰れたことで目が覚めたらしい。失った人間関係を嘆いても、なかなか戻らないものだろう。
今は普通に電話で話したりなどする。もしまた何かあれば、わたしは同じようにはっきりと断るだろう。
苦しんだ記憶があればこそ、彼女もいつかよいストッパーになれるかもしれない。期待はしすぎずに、しかし勝手にそう願っている。
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