私はこうして「文筆家」になった
私が初めて『アフリカ』と出会ったのは、2020年。当時の私は電車で1時間半ぐらいかけて鎌倉に行き、ウクレレワークショップに1ヶ月に一度参加することで、日常のしんどさから解放されるために、非日常の時間を定期的に作っていました。それは、家庭でも職場でもない、いわゆる第三の場所として、当時の私にとって必要な場所と時間でした。同時にその頃、私の中で個人的なおにぎりブームが起こり、おにぎりの魅力に心を掴まれていた私は、Instagramに色々なおにぎり屋さんのおにぎりの紹介と、自分で作ったおにぎりの写真を投稿し、おにぎりに特化したInstagramの投稿を頻繁に続けていました。私は東京の日本語学校で日本に来たばかりの外国人留学生たちに日本語を教えていたのですが、もっと身近な日本文化の一つである「おにぎり」についても、外国人にも紹介したいと思い、外国人と「おにぎりを作る会」をやってみたいと思っていました。一人でそれをするのは少し大変そうに思ったので、同じ日本語教師の友人を誘い、計画し始め、その最初の開催場所はどこにしようかと、考えていたとき、
「鎌倉がいいんじゃない?外国人も多そうだし」
と、友人が提案した鎌倉で場所を探すことになりました。ネットで鎌倉のレンタルスペースを探していると、「ゲストハウス彩(イロドリ)」を見つけ、なんとなく気になって実際に行ってみることにしました。鎌倉に行くことをいつも楽しみにしていた私は、仕事が休みだった平日に、そのイロドリに、事前になんのアポイントをとることもなく、ふと思い立った日に電車に乗って鎌倉に向かったのです。当時小学校低学年だった息子が学校から帰って来る前に家に帰って来たかった私は、朝、息子が学校に行った直後に最寄り駅に向かい、朝の通勤通学で少し混んでいた電車に乗って鎌倉を目指しました。午前中には鎌倉に着き、歩いて散歩をしながらイロドリに向かいました。オーナーにはなんの連絡もしておらず、今日いるのかいないのかもわからなかったのですが、なんとなくイロドリに向かって歩いて行ってみました。もし、だれもいなかったら、気になるお寺やお店、おにぎり屋に行ったりしようと、その限られた時間の中で、鎌倉散策を楽しむつもりでした。今日ここに来た時間は何も無駄にはならないと思いながら歩いている内に、イロドリの玄関の前に着きました。
一見、古い和風の一軒家で、ここがゲストハウスかな、と思って上を見上げると、ベランダに男性用の浴衣のようなものが一つ干してありました。日本文化好きの私は、このいかにも和風を感じるこの家の佇まいから、なんとなく良い雰囲気が出ていることを瞬時に受け取り、なんだかワクワクしてきました。すでに玄関のドアが半分開いており、ゲストハウス(?)はもう開いているようでした。オーナーが武士だということは調べたときに知っていたので、浴衣のような和服が干してあるということは、たぶんここがイロドリだろうと思い、思い切って玄関のチャイムを鳴らしました。
「ピンポーン!」
しばらくすると、
「はーい、どうも、こんにちは?」
と、本当に武士の恰好をしたオーナーの武士殿が現れました。私は、武士の恰好をしている方が家から出てきて「おおおっ!本当に武士だ」と思いました。
「初めまして。突然すみません。武士さんですか?」
と、その姿が自然体でなんの違和感もなく、私はもう「武士さん」と呼んでいました。
「はい、イロドリというゲストハウスのオーナーの武士です!」
「本当に武士さんなんですね?!」
「はい、武士です!」
と、終始にこやかに、そして堂々と、武士殿は「私は武士です!」とはっきりと自己紹介をされました。どうして武士の恰好をしているのかということや、ここはどんな場所なのかということをまだこちらから何も聞かないうちに、自ら話し出しています。少しその武士殿の話が落ち着いた頃、
「あの、突然お伺いしてすみません。少し、お話できますか?」
と、私が言うと、
「ああ、すみません。どうぞ、どうぞ、玄関先ですみません。中へどうぞ!」
と、話に夢中になっていた武士殿は、「はっ!」と今気が付いた様子で、玄関の中に慌てて私を迎え入れてくれました。家の中を見渡すと、黒電話や「温故知新」と筆で太く書かれた掛け軸などがあり、色々と興味を惹かれるものがたくさん置いてありました。
「ここは…古いものがたくさんありますね。とても興味深いです」
と、私が言うと、武士殿はイロドリ内に置いてある古い物についても説明をし始めました。その話の延長に日本文化好きの共通点が見つかり、色々と共感する思いで私は「ふむふむ」と、そのお話に聞き入りました。
「日本文化が好きなんですね。私もです。実は今、友人と鎌倉で、外国人とおにぎりを作る会というワークショップができる場所を探していたんです。それでこちらにレンタルスペースがあることを知って来たのですが…そのような活動を、こちらでさせていただくことはできますか?」
と、聞いてみました。すると、
「できますよ!おにぎりですか!いいですね!ぜひ、やりましょう。家には七輪もあるので、七輪で焼きおにぎりなんかも良さそうですね」
と、私の唐突なおにぎりの話についても、とても前向きに対応してくれました。その時、当時ハマっていた私のおにぎりのInstagramを見ていただき、色々なおにぎりの写真を見て「おおお~!」と色々なおにぎりの写真に驚いた様子で、
「おにぎりいいですね~!あっ!おにぎりの人だ!!」
と、私のことを「おにぎりの人」と認識した様子でした。
「こちらこそ、ぜひ、よろしくお願いします!また改めてご連絡いたします」
と言って去ろうとしたとき、
「あ、これよかったらどうぞ」
と言って最後に武士殿に、ふと手渡されたのが『アフリカ』でした。
「ここで、文章教室というのをたまにやっている方がいるのですが、この前もその文章教室があって、これはその方たちで作られている雑誌です」
と、たまたま帰り際に武士殿に渡されたのが『アフリカ』でした。これが『アフリカ』との最初の出会いでした。武士殿も参加したことがあるという文章教室についての話を聞き、
「なんだか、おもしろそうですね!」
と、早速私は興味を持ち、その『アフリカ』を受け取り、イロドリを後にしました。初めてお会いした武士殿は、なんのアポイントもなく突然来た私に対して、とても親切な方でした。
帰りの電車で椅子に座り、武士殿に手渡された『アフリカ』を読み始めていると、なんだか他人事ではないような登場人物が出てきました。その話の内容と私も似たようなことを考えているなぁと、思いながら読んで帰ったことを憶えています。その日から『アフリカ』は私のしんどい日常にすっと入って来たのでした。一緒に帰りの電車に乗って、いつものしんどい日常の環境へと帰り、文章教室とはどんなものなのかと、気になっていました。たまたま『アフリカ』と出会ってから、3ヶ月後ぐらいたったあたりに、文章教室の案内人で道草家の方に連絡をしてみました。気になったことをそのまま置き去りにしなかった私は、こうして『アフリカ』とつながっていったのです。
これが、私の『アフリカ』との最初の出会いであり、道草家の方と文章教室との出会いでもありました。この日の武士殿と話したこともよく憶えています。それから、コロナ禍が長引いて「おにぎりを作る会」は未定になりました。その後3年の間に自分の身の回りも心境も随分と変わっていきました。この激動の3年間、本当に色々なことが私にはあったのですが、しんどい日常の傍らで『アフリカ』を読みながら、道草家の方にお願いして始まったオンラインでの文章教室にも参加し、毎月の「WSマガジン」に移行した後も、なんとなく文章を書き続けました。じわじわと生活が崩れていくような変化が立て続けに起きていた私は、『アフリカ』の最新号が発売される度に買い、その中の登場人物たちと、しんどい日常を一緒に歩いて来ました。今にも悲しみに打ちひしがれそうだった私は、この『アフリカ』と、文章教室に参加することによって、だんだんと重たかった心が救われていくようでした。たまたま『アフリカ』と出会えたのは、好きな場所で訪れていた鎌倉で、好きなウクレレと、好きなおにぎりによって導かれた何か運命的な出会いのようにも思えてきます。
そして2023年には、私の文章も『アフリカ』に載せていただくこととになりました。あの頃、しんどい日常の中で読んでいた『アフリカ』という雑誌に、まさか自分の文章が載るとは思ってもいませんでした。とてもうれしかったです。しんどい日常の中で『アフリカ』を読む人だった私が、3年後、いつのまにか文章を書く人になっていました。それと同時に、いつのまにか、あのしんどかった日常からも解放されていました。
コロナ禍を過ぎ、約3年ぶりに再びイロドリに向かい、私は久しぶりに武士殿と再会しました。あの日の『アフリカ』がきっかけで、今、文章を書いているということを話したとき、武士殿は私にこう言いました。
「え!そうだったんですね。うれしいです。わあ~、文筆家だ!」
と、今度は「文筆家」と私のことを認識されたようでした。2023年の春、やむを得ず仕事と生活環境を失ってしまった私には、文章を書くことしか残っていませんでした。たまたま自分を救うように書いていた私の文章は、2023年の11月にも『アフリカ』に載せていただき、文筆活動だけが続いていました。また何か救われた気持ちになりました。窮地のときにいつも支えてくれた『アフリカ』。私もだれかの心をそっと支えるような文章が書けますように。そして、どこかの誰かのしんどい日常に、『アフリカ』がそっと届きますように。