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書くことが好きだった私が今思うこと
物心がついた頃から書くことが好きだった。字が書けるようになる前から、すでに印字されている紙に線を書き入れて、それを束ねて本のようにしたものを大切に持っていた記憶がある。
小学校に入る前後から日記を書き始めた。途中で放棄したりまた始めたりしながらだったが、書くという行為はいつも私の身近にあった。
読書感想文の宿題にはかなり難儀した(書き方が分かっていなかった。本を読んでいない人にも自分がどこに感動したのか伝えようとした結果、あらすじを紹介する形になって、でも「あらすじを書くのは下手な読書感想文です」みたいな指南を受けて混乱していた。)が、行事の作文はすらすら書けて評価も上々だった。
だから、私は書くことが得意なのだと思っていたし、ゆくゆくは書くことを仕事にしたいという夢もこっそり持っていた。「こっそり」なのは、それがとても狭き門だということも知っていたからだ。仕事にするには「選ばれる」必要があって、自分の書くものが誰かに選ばれるようなものかは分からない。大声で公言してしまっては、いざ選ばれなかったときにとても恥ずかしい思いをする。そう思っていたから。
大学でも社会人になっても、なかなか私は書くことを仕事にできなかったが、ブログを開設したり放置したり、また始めたりを繰り返していた。いつぞやの日記と同じだ。人間、そのへんの傾向は変わらない。
社会人になってからは、業務の中にブログ更新が組み込まれていた時期もあったので、そこは実は生き生きとやっていた。本筋ではないところだけれど、ブログを書くことが仕事の一部と認められるのだから、そりゃあ楽しかった。私は自分の見た目や性格や声質は好きではないけれど、文章はそれなりに好きだ。特に深夜に書いた文章なんか、とんでもなくきざな言い回しをしていることもあるけれど、そのときにしか書けない味わいがある。リズムがいい。自画自賛だ。ということで、これはまったく業務の一部でもなんでもないけれど、書いたブログをまとめて冊子にして持ち帰ったりしていた。今は漫画も活字もデータで持つ時代なのかもしれないけれど、やっぱり紙媒体で手元にあると気持ちが上がる。まあ、そういうのが趣味なんだと思う。
結局、こっそり持っていた夢は実現されないまま(一部実現したのか?)今に至る。結婚して出産して育児している真っ最中。年もそこそことってしまった。二十代後半に差し掛かる頃だったか、三十路手前だったか、妹とこんな話をした。なんだか私は自分が何かを達成することのできる人間だと思っていたけど、どうやらそうではないらしいと気付いた、というような話。仲良しの妹は、それを茶化すでもなく励ますでもなく、理解を示してくれた。結構恥ずかしい話だけれど、それはとても大きな実感だった。
書くことというのはいつでもできるから、思い続けている限り、夢は終わらない。趣味なんだよと言っておいて、こっそり夢を持ち続けることができる。だから、それまでずるずる持ってきてしまったけれど。生活の愚痴くらいしか文章にするモチベーションが湧かないんだもの。好きな作家の本や、ネットで目にする人のいろんな文章、どれを読んでも太刀打ちできないなぁ~と思う。敵わない。私の中にはそこを越えていけるような力もなければ、エピソードも情熱もない、ということに気づいた。なんてこった。情熱すらもかよ。
今の私にとって、書くことはただの趣味であって、時間も情熱も足りないからこうしてPCに向かうこともなかなかできない。でも、書き始めると楽しいんだよなあ! なんだこれ。自分の思っていることが文字になって表われる。読むものになる。こんなお手軽な表現活動ってあるのかな。公開してしまえば、たとえ読む人が0人であっても世界の誰もが見られる状態になる。つまり読まれる可能性が無限に広がる。これが日記帳との大きな違いだ。わくわくする。
久しぶりに書いたから、まだなんだかぎこちない感じは拭えないけども、それも含めて残しておこう。そのうち深夜のテンションが戻ってくるかもしれないし。
本当はかつての夢を失ってしまって、何者にもなれない自分の悲哀を書こうと思っていたのだけど、楽しい気持ちになってしまったのでそれはまた今度。