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光る風

「私の将来の夢は歌手になることです」

小学校の卒業式だったか、私はそんなことを言っていた。小学生らしいありきたりな夢。当たり前に叶うはずもなくそこまで本気で思っていたわけでもなく、普通に進学して普通に就職した。

小5のときにYUIと出会った。社会や大人たちにナイフを向けるように歌う姿がとにかく格好良かった。初めて買ったCDもYUIだった。

ギターをやりたい、と両親に言ったとき、「いつかそう言うと思ったよ」と父が古いエレキギターを貸してくれた。チューニングと基本的な弦の押さえ方だけ教わって、そこから先は独学。

今は廃刊になってしまった「月刊歌謡曲」という雑誌。YUIの全曲分のコード譜が載っている号を取り寄せて、付録のコード表のポスターと睨めっこしながら練習する日々。学校から帰ってきたらすぐ自分の部屋にこもって、晩ご飯の時間までずっとギターを弾いて歌っていた。
だんだんスムーズにコードが押さえられるようになるのが嬉しかった。適当なリズムのストロークで熱唱するのが楽しかった。リフはあまり上手くならなかったけど、なんとなくでも弾けるようになった日は舞い上がった。おしゃれコードの音色にときめいた。習い事のピアノの練習なんかよりずっと熱中していた。
誕生日には念願のアコースティックギターを買ってもらった。


学校は嫌なことばかりで嫌いだった。でもギターを始めてからは毎日が楽しかった。私以外にギターを弾く同級生は誰もいなくて、音楽の話はできなかったけどそれでもよかった。1人でただ黙々と音楽をやっていた。
人生で初めて熱中したものが音楽だった。


劇中の夕のように、険しい道を選ぶ覚悟を持った人は輝いて見えた。成功しているかそうでないかじゃなくて、行動を起こしている、ただそれだけで夕は眩しかった。
もしも私が夕と同じ道を選んでいたらどうなっていたか……あまり想像はできないけど、ずっと安牌を選び続けてきた自分の人生には少しだけ後悔が残っている。


それからしばらく経って。
ピアノもギターも辞めてしまったけど音楽は変わらず大好きで、社会人の今は稼いだ分の多くがライブのチケット代と遠征費に消えていく。学生の頃より好みの幅はかなり広がって多様なジャンルの音楽を聴くようになって、行動力は格段に増した。


そして自分ルール的な感じで、行ったライブは必ず感想をインスタに上げる、ということを続けている。


大学4年の就活が終わった頃、グワィニャオンという劇団の「六月の斬る」という作品に好きな役者さんが出ることを知って観に行った。あらすじもよく知らないまま勢いだけで観に行ったのだけど、その作品が本当に本当に素晴らしかった。観ていて体温が上がった。良い意味で、これまでの自分の価値観や考え方を崩された。
終演後しばらく席から立てずにいて、帰るまでずっと身体がふわふわしていた。こんなに心を動かされ、高揚させられた経験は初めてだった。

公演期間が終わって、居ても立ってもいられなくなってSNSでハッシュタグをつけて感想を投稿した。1公演の記憶を必死に思い出しながら、そのとき抱いた感情のすべてをぶつけた。Twitterの140字をツリーで何個も繋げた長文になってしまった。

その投稿は、SNS上でほぼ全ての出演者に、そして脚本や演出などを手がける主宰に届いた。「いろんな想いを感じ取ってくれてありがとう」「やってきてよかった」演者や主宰ご本人からのリプライの、たくさんの感謝の言葉に心が震えた。私の言葉が届いた。こんなに嬉しいことがあるのか。


もう一つ、高校の頃に好きになったゴスペラーズの25周年のタイミングで、好きになったきっかけやこれまでのことを文章にまとめて投稿した。


自分史をまとめるだけの気持ちでいたのが、図らずもこの文章がフォロー内外問わずたくさんのファンの方、そしてメンバーにまで伝わって、私の投稿をきっかけに「自分とゴスペラーズとの歴史」を振り返る、というのが一つのムーブメントとして起こっていった。自分の文章に対する肯定的な感想もたくさん頂いて、ひとつひとつスクショを撮って残すくらい嬉しかった。

この二つの成功体験と喜びが忘れられなくて、今もなお、こうして長々と文章を書いている。
私は絵は描けないし記憶力もなくてセトリや詳細なレポも書けない。けど感じたことは言葉にできる。のかもしれない。


SNSのハッシュタグやメンションは、自分の中では本人/関係者に届けるために使うものだと思っている。そこに書く言葉はしっかり整えて、嘘のない言葉で。

彼方が夕の歌を聴いてMVを作りたいと思った気持ちは、私が音楽を聴いて、ライブや演劇を観て抱いた感情を言葉にしたいと思う気持ちと似ていた。

もともとインスタは見るためだけにアカウントを作っていたが、途中から行ったライブを記録するために投稿もするようになった。

インスタで感想を上げるようになったきっかけは、2022年のフレデリックの代々木アリーナ公演。それまでもフレデリックのライブや音楽は感想を綴ったり本人に届けたりしていたけど、代々木公演は「言葉にせずにはいられなかった」。衝動的に、インスタとnoteに文章を打ち込んでいた。noteの方は烏滸がましくもメンバーにDMでリンクまで送ってしまった。


所詮は自己満足。でも誰かの目に留まってほしい。
反応が欲しいわけじゃない。でももし本人が見てくれたんだとして、私の言葉で1mmでもプラスの感情が生まれてくれるのなら。あなたの作品に救われた人間がここにいるんだということを少しでも伝えられるのなら。

曲やライブの感想を書くなんて誰にでもできる。
誰にでもできることを、自分にしかない言葉で表現で伝えたかった。
正直、今日はなんか微妙だったな、とかたぶん次はないかな、と思う日もある。それでも良い所は全部言葉にした。演者の精一杯に、精一杯応えたかったから。

ライブを観る時はいつも、感情に言葉は追いつかない。終わってから、その瞬間の感情を思い出しながら時間をかけて言葉を選んでいく。

あの時の感情にこの表現は少し意味がズレるよなとかまとまりはあるけどいや違うこういうことが言いたいんじゃなくてとか、長いときは数日かけてスマホ片手に頭を悩ませている。日を置いて読み返して何度も修正する。いつも苦しみながら、苦しいなら辞めればいいのに、誰のためにしているでもないのに、それでも私はこの時間を愛している。

私の言葉は合わない人もいると思う。知らない間に誰かを傷つけていることもあるかもしれない。
昔の自分の文章を読み返して、なんでこんな書き方したんだろうとかこれは良くない表現だったなとか思うことは多々あるが、全部当時の自分が考え抜いて選んだ言葉と表現だったからそのままにしている。後から修正なんてできないほうが、言葉の重みを忘れずに済む。



劇中で萠美が「彼方のMVは、応援なんだと思う」と言った。人の作品に自分の想いを重ねる彼方の作品は、0から1を作るものではない。

けど、1を100にも1000にもできる。

その真っ直ぐさで、衝撃に背を押されそのまま走り出してしまうような純粋な感情で、周りの人を動かしていく強さを持っていた。心のどこかで、私もそうありたいと思っていた。

やりたいことがなくて、先の見えない自分の心に見切りをつけたトノの気持ちが痛いほど分かった。
100曲目まで諦めずに続けて、外で歌う勇気を持ち続けた夕がただただ眩しかった。
今この瞬間を全力で駆け抜けようとする萠美が羨ましかった。


観る人それぞれの生き方によって、メインキャラクター4人に対する共感や憧れのバロメーターが変わっていくのだと思う。
私の場合「共感」はトノ>彼方>夕>萠美。
「憧れ」は夕>萠美>彼方>トノ。


私は「モノづくり」なんて大層なことをしている立場ではない。だからどこまで作品に自分を投影できるか、観るまでは分からなかった。
観た後に思ったのは、モノづくり、もっと広く言えば「何かに夢中になっている」人にならきっと響くものが「数分間のエールを」にはあるということ。

心を突き動かされたものに対して、絵で、動画で、言葉で、行動で、自分のできることで精一杯の賞賛と推薦と応援をすること。誰に言われたわけでもない、誰の評価を得たいわけでもない、ただひたすらに孤独に磨きあげる自己満足を、この作品は肯定してくれている気がした。それに救われる自分がいた。

かつて熱中したものから今は離れてしまっていても、形を変えていたとしても、そのすべては繋がっている。無駄なことなど一つもなかった。

拙くも、一歩踏み出した世界は風が気持ちいい。

その風に背中を押されるように、私は今日も拙い言葉を紡ぐ。届け届けと祈りを込めて。ありったけの愛を込めて。