李家山(リジャーシャン)
磧口本村から湫水河を渡って小1時間山道を登ると、李家山(リジャーシャン)という集落に着きます。今年の3月に来て以来2度目で、ここで民宿をやっている李ジェンシンと馬ロンフォアのヤオトンのひとつが、これから私が住むことになる部屋です。ここではネットが繋がらないので、磧口と行ったり来たりの生活になります。
来てみると、以前彼らが住んでいた一番いい部屋が私のためにあけてあり、きちんとかたづけられていました。カンの上にはピンクの布が敷かれ、手作りの小さな机がふたつ。タンスにする大きな箱も、私専用にひとつ用意してありました。3月に突然来て、たった2晩泊まっただけなのに、なぜこんなに厚待遇なのかよくわからないのですが、とにかくこぼれんばかりの笑顔で、私を迎えてくれたのです。
ロンフォアがいうには、この家は村では最も古く、400年前(!?)に建てられたそうです。確かに、建物自体はそれほど立派なものではないのですが、集落の一番高い位置にあって、門口に立つと、全体がよく見渡せる構造になっています。彼女のいうとおり、最初に村に来た人たちが住んだ家なのかもしれません。そして赤茶けた集落の向こう側には、茫々として広がる黄土高原の山並みが果てしなく、まるで大海のように波打っているのです。
以前から、ときどき写真や映像で見ては、「あぁ、あんなところにも人は住んでいるんだ‥‥」と、荒涼とした風景とそこに暮らす人々の姿に、胸しめ付けられるものがありましたが、まさかそんなところにこれから自分が住むことになろうとは、夢にも思っていませんでした。 (2005-06-22)
桃源郷
李家山も、磧口の繁栄に伴って発展した村です。農地がほとんどないこの地へ、明代に近くの村から移住してきた李氏が、ラクダを飼育して運送業を始めたのが大成功したのです。
現在は、等高線状に耕した山の上で棗(なつめ)を栽培しています。10月に紅くなってから収穫し、乾燥させて、「紅棗」(ホンザオ)として出荷されます。中国では、紅棗は“健康食品”としても昔からおなじみで、北京でもどのスーパーに行っても必ず売っています。このあたりの紅棗は品質がよいことでも有名だそうです。
ここは別名「鳳凰山」とも呼ばれ、鳥が羽を広げたW型の、首と翼の部分に集落がかたまり、谷から山頂にかけて、一気呵成に縦にヤオトンが並んで、美しいフォルムを描いています。雨に弱い黄土層のために、排水溝は石で固められ、家々を結ぶ通路も石畳になっています。そして、山の下から見ると集落があることはわからず、外部から隔絶された隠れ里のようになっているのです。ときどき北京や太原などから、絵描きや写真家が訪れます。
私はここに来てから、毎日朝早くに村の中を散歩するようになりました。中心部はひとまわりしても30分ぐらいです。花咲き鳥歌う、という自然条件ではありませんが、村の人々が朝食前のひと仕事に精を出し、お年寄りがのんびりとキセルをふかし、小学校からは子供たちの斉読の声が響き(張芸謀の『初恋の来た道』そのまま)、行きかう人はみな笑顔を返してくれて‥‥、観光ガイドに“桃源郷”と書かれるのも、あながちおおげさではないと思われるほどに美しい村です。
と、ここで文章を終わりたいところなのですが、ここでもゴミ問題は深刻です。生ゴミは畑へ、紙類はカマドで燃やすのですが、プラスチック・アルミ箔系の不燃物が、崖下に無造作に投棄されて、醜い縞模様を作っているのです。大切な“観光資源”を守るためにも、この問題の解決がいかに重要か、村の人たちに理解してもらうには、まだまだ時間がかかりそうです。 (2005-06-23)
筆談は文化財で!
ここに来て最大の問題は、言葉が通じないということです。日本にも方言はありますが、そんなほのぼのとしたものではありません。ごくごく基本的な日常会話はなんとかなるのですが、それをちょっとでも越えるともう完全に外国語です。老人の場合は完璧にわかりません。ロンフォアは職業柄、なんとか標準語が使えます。
子供の方がまだ通じるのですが、先生の当たりが悪いのか、とても標準語とまではいきません。そのうえ村人たち、特に女性がみなものすごく話好きで、私がいくらわからないといっても、おかまいなしに機関銃のようにけたたましくしゃべり続けるのです。日本人がやって来たという噂は、くまなく行き渡っていて、どこに行っても待ってましたと集中砲火を浴びます。
そして必要があれば筆談(もっとも、極限られた少数の人しか読み書きはできない)となるのですが、向かいに住む李シーチェンじいさんなどは、尖った石を拾ってきて、築400年の文化財の石の壁にゴリゴリ字を書くので、それは止めてもらいたいと思うのですが、まぁ、雨風にさらされて2、3年もたてばきれいになるんでしょう。
日本で文化財の壁に落書きというと、場合によっては新聞ネタですが、石の文化財にはおおらかというか、耐久力があるというか、確かに、ひのきの命が3000年ならば、石の命は少なくとも3000万年くらいはあるでしょう。中国人がアバウトで逞しいのはこのあたりとも関係があるのか、ないのか???
とにかく今日、じいさんとの筆談で理解したことは、向かいに住むのは、63歳のシーチェンと、83歳の父親、そしてシーチェンの弟の嫁さんと、中1の息子(寄宿舎暮らし)の4人だということです。その弟というのは、現在太原へ出稼ぎに行っているそうで、この村もやはり、一家の大黒柱はほとんどが出稼ぎという、現代中国の典型的な農村の姿をしているようす。 (2005-06-24) 李家山小学校
私がいるところから坂道を3分下ると、李家山小学校があります。そろそろ夏休みに入ると聞いたので、プレゼントのノートと鉛筆を持って訪ねてみました。
5つの部屋が連なったヤオトンで、2つが教室、1つが職員室、2つが物置として使われています。イス、机と黒板以外にはきれいさっぱり何もありません。窓の障子もボロボロ、寒くなったら貼りかえるので問題ないそうです。
ほとんど倉庫としかいえないような薄暗い教室ですが、子供たちは明るくて、私が行くと立ち上がってあいさつをしてくれました。3月に来たとき、ちょうどポケットに入れていたコンペイトウを一粒づつ配って以来、みんな私の顔はよく覚えているのです。
しかし、門や塀がないのはともかく、一木一草ない猫の額のような校庭には、鉄棒や滑り台など、遊具のようなものはいっさいなく、ただ黄色い空き地がぺらんと無造作に広がっているだけです。子供たちはいったい何をして遊ぶのでしょうか?後で聞いたことですが、サッカーやバスケなど、一番人気の球技は、李家山ではグランドがとれる平坦な土地がないのでできないそうです。 (2005-07-01)
フリルのスカート
児童は全部で40人ほど。幼稚園から3年生までが一クラス。4年から6年生までが一クラスで、先生はふたりです。
1年が2期制で、1期の学費は教科書代を含めて88元(1元≒14円)。これは地域によって大きな格差があるのですが、ここは貧困地区に指定されているので、最低のラインだと思います。それでも学費を払うのがたいへんな家庭も多いようです。
というのは、北京などの大都市では厳守されている“一人っ子政策”も、磧口のような農村ではザル同然なのです。一人っ子などは皆無で、みんな2人、3人兄弟姉妹、4人、5人という子たちもいるのです。そして、やはり男の子が産まれるまではと産み続けるので、この小学校でも女の子の数がずっと男の子を上回っていました。
「日本では産児制限はあるのか?」とときどき聞かれますが、「日本は今、産めよ増やせよ政策をとっている」といっても、誰もピンと来ないようです。
教室には女の子が多いせいもあったのかもしれません。子どもたちの服装がなんだか3月に来たときよりずっときれいになっているのに気づきました。ひらひらのフリルがついたスカートや、アニメキャラクターのTシャツが、裸電球がふたつぶら下がっただけのわびしい教室を、妙に華やかに彩っていたのです。
どうやら出稼ぎに行ったお父さんが町で最初にする買い物は、たくさんフリルのついた、かわいらしい色鮮やかな子供服のようです。 (2005-07-02)
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