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中国残留日本人女性 谷川政子

磧口が属する臨県に、戦後帰国せずに中国に残った日本人女性が2人住んでいるという噂は、かなり前から耳にしていました。最初に聞いたのは、黄河賓館で会った中学生からで、彼らの社会科の教師がいっていたというのです。もし現在も存命中であれば、おそらく80歳前後。私はぜひとも会ってみたいと思い、何とか連絡をとってくれるように頼んでおきました。その返事がようやく来たのです。

結果は、残念ながらひとりの方はすでに亡くなっていました。もうひとりに関しては不明です。ただし、亡くなった方の息子さんに連絡が取れ、私のことを話したら、向こうもぜひ会いたいという返事でした。

それで私は先月の中頃、磧口からバスで1時間半ほどの三交サンジャオ(*臨県では2番目に大きな町、日本軍の駐屯地があった)という町に向かいました。もしかしたら少しくらいは日本語が話せるかもしれないという期待を込めて。

私が会ったのは崔レンワン、58歳。行き方がわからないので、バスを降りてから電話をし、迎えを待ったのですが、視界に入った10人ほどの通行人の中から、私はひと目で彼を見分けることができました。明らかに“日本人”の風貌をしていたからです。

白髪交じりの、小柄で穏やかな顔つきをした彼は、簡単なあいさつをした後、ここでは日本人ということを名乗らないでくれといって、私を彼のヤオトンに案内してくれました。残念ながら日本語はまったく話せませんでしたが、ほぼ標準語を話すことができました。

その後、結局私は、崔さんの元を4度訪れ、彼の母親、谷川政子さんの“数奇”な人生について話を聞いたのです。

あの時代、他国への侵略とは考えず、むしろ夢と希望を抱いて“新天地”へ渡った民間人はたくさんいました。そして、敗戦時幼かった“残留孤児”とは違い、自らが日本人であるということを認識しつつ、中国に残留した日本人、とりわけ女性の数は東北地方を中心にかなりの数にのぼるといわれています。

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2度目に訪れたとき、私は谷川政子さんの墓に行ってみました。日本の方角に向けて建てられたという墓は、これまで見たものと同じく、黄色い大地に小山のような盛り土がされただけの、墓標のない墓です。

彼女が日本に帰っていれば、墓には彼女の名前が記されたことでしょう。自分の子供たちを除いては訪れる人もない黄土高原の丘陵で、ものいうことなく静かに中国の土に還ろうとしている、ひとりの日本人女性。谷川政子という女性が、過酷な自然と社会環境に囲繞されたこの地で短い人生を終えたことを、わずかな人たちであれ、記憶に残してもらうために、ここに記しておきたいと思います。                 (2005-11-24)                

撫順・老虎台炭鉱
1944年、のちに崔レンワンの父となる崔ジンドウは、父母を養うために職を求めて故郷を後にし、省都太原に向かった。ところが到着するやいなや、若く壮健だったジンドウは、瞬く間に日本軍の“工人狩り”の網に掬い取られ、遼寧省は撫順・老虎台炭鉱へと強制連行されてしまったのである。

そこでの1年間は筆舌に尽くしがたい苦役の日々だったが、やがて翌年8月、日本は敗戦の日をむかえ、日本人は軍人・軍属・民間人ともども、大混乱の中を我先にと祖国へ帰っていった。

老虎台炭鉱に残ったジンドウはやがて班長となったが、その頃、班の中にひとりの日本人が働いていた。名を谷川雄作といった。

彼は1937年頃、家族を伴って満蒙開拓団の一員として、黒龍江省・牡丹江市へ渡り、水道会社の技師として働いていたが、敗戦後帰国のチャンスを逸していた。妻と母、そして6人の子供を養うために、流れ流れて老虎台で採炭工に就いていたのである。

ある日、ジンドウがふと工人部屋を覗くと、雄作はぼろぼろの布団に蓑虫のようにくるまり、傍らに脱いであった衣服には無数の虱がごそごそと蠢いていた。そのときジンドウの心には喩えがたい悲哀が走った。むろん日本人には数々の凌辱を浴びせられ、恨んでも恨みきれないはずだが、いままさに目の前にいる彼の悲惨を、そのまま見過ごすことは自分にはできないと思った。

彼は雄作の衣服を拾い上げ、虱をはらって、熱湯で洗濯をしてやった。そして自分の服を取りに戻って雄作に与えた。雄作はひとこともしゃべらず、ただ両の目に涙を浮かべて小さくうなずいただけだった。

こうして、中国人崔ジンドウと日本人谷川雄作の交友が始まったのである。

結婚 
それ以降、谷川家の人たちは次第にジンドウと言葉を交わすようになり、子供たちも彼を兄のように慕うようになっていった。

1945年の暮れのある日、ジンドウは、谷川夫妻から家に来るようにという連絡を受け取った。いったい何の用だろうと訪ねてみると、雄作は突然、「ジンドウ君、君もそろそろ身を固める時期だ。ウチの政子を嫁にもらってくれないだろうか?」と切り出したのである。政子は谷川家の長女で、両親がもっとも信頼をおく、とてもものわかりのいい娘だった。

思いもかけぬ話にジンドウはびっくりした。しかし彼は、すでに雄作が2歳になったばかりの末娘を、山東省から来た鉱夫仲間に預けたことを知っていた。その当時にあって、日本人の炭鉱夫が6人もの子供たちを食べさせることは、とうてい不可能なことに違いなかった。

傍らにいる政子の枯れ枝のようにやせ細った身体と、思いつめた懇願するような眼差しを見たとき、ジンドウの心にはもう後にはひけないという思いがよぎった。彼は黙って首を縦に振った。そのとき政子はわずか16歳、中国人崔ジンドウの妻となって谷川家を離れたのである。

ところが皮肉なことに、翌1947年、谷川家に待ちに待った帰国のチャンスが巡ってきた。

黄土高原へ
ジンドウは、政子に家族と一緒に日本に帰ることを勧めた。しかしこのとき彼女はすでに身ごもっていたのである。自分がいま日本に帰れば、父と子は永遠に離れ離れになって会うことはできないだろう。それに、口減らしのための結婚とわかってはいたが、一緒に暮らすうちに、いまはジンドウに対する愛情も芽生えてきていた。政子は家族からの誘いをきっぱりと断わり、ジンドウの元に残ることを選択した。やがて産まれた男の子がレンワンである。

彼らの暮らしぶりもしだいに落ち着きを取り戻し、未来に明るい希望が持てるようになってきた。そして1950年、ジンドウは久しく離れていた故郷に、2歳になったレンワンと若く美しい妻を連れて帰郷した。このときはじめて、政子は黄土高原の土を踏むことになったが、けっきょく終生この地を離れることはなかったのである。

当初ジンドウは両親に妻子を紹介した後に、撫順の家に帰るつもりでいた。仕事が待っていたし、離れがたい友人たちもたくさんいたからである。ところが、年老いた母は息子が再び故郷を離れることを断じて許さなかった。けっきょくジンドウは母の命にそむくことはできなかったし、自らの故郷もまた離れがたかった。ジンドウから母の意思を知らされた政子は、黙って夫に従うしかなかった。

1954年、政子は中国国籍を取得し、黄土高原の村に骨を埋めることを決意したのである。                    

日本人の血
故郷に残ったジンドウは、小学校の教師となり、政子は、この地の普通の女性たちと同じように、家を守り、心をこめて夫と姑につかえ、3人の子供たちを育てた。10歳になる前に中国に渡ったため、言葉にはなんら不自由はなかった。

レンワンの心に残る光景の中で、唯一母が他の中国女性と違っていたことは、彼女が正座して家事をするということだった。レンワンが眠りにつくころ、母は毎晩のように彼の枕元に座って糸を紡いだ。夜中に目覚めると、母はまだ紡ぎ車の前に座ったままで、いつまでもいつまでもくるくると車を回していた。

また母はときに、黄色く変色した1枚の写真をいとおしそうにレンワンに見せることがあった。それは母の宝物のように見えたが、その家族写真の中には一人の和服を着た女性が写っていた。幼かったレンワンは、この頃から、自分には日本人の血が流れていることを漠然と感じていた。

その後、ジンドウは、老虎台炭鉱の仲間を頼んで、2歳で中国人に預けられた政子の妹の消息をたずね、ついに探し出すことができた。妹の美代子は四川省の炭鉱病院で看護婦をしていたが、そのときはじめて彼女は自分が日本人であることを知ったのである。          

引き裂かれた家族写真
それ以来、美代子はたびたび姉の政子に手紙を寄こして日本に帰った家族の消息を聞きたがった。彼女はどうやら日本に帰って親族を探したいという強い希望を持っているようだったが、政子はむしろ中国に残ることを勧めた。残念だったことは、中国に残った唯一の肉親同士があいまみえることは、ついに最後までなかったということである。

レンワンが中学にあがった頃、日ごろは仲がよかったクラスメートたちから、ときどき“小日本”(*シャオリーベン=日本人に対する蔑称)といじめられることがあった。レンワンはくやしさをじっとがまんしていたが、ついに耐え切れなくなって母の前で泣いたことがあった。

政子はレンワンの様子をただ黙って見つめるだけで、慰める言葉を持たなかった。しかし以降、彼女は自分の出自に関しては、固く口を閉ざして他人に話すことはなくなり、日本や自分の家族の話をすることは一切なくなったのである。

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その後“文化大革命”の嵐は、黄土高原のこの小さな町にも容赦なく襲いかかった。ある日ジンドウの家に紅衛兵の一群がやってきて、政子が大切にしていた写真を見つけ出して引き裂いた。彼女には、彼らの暴虐をおしとどめるすべはなく、ただ黙って打ち捨てられたたった1枚の家族写真をかろうじて拾い上げただけだった。
写真:右端は10歳頃の政子。和服姿は政子の母。中央の赤ちゃんは、中国人に預けられた美代子と父。

故郷そして祖国
そんな事件があって以来、政子は心身ともに疲れ果て、それまでピンと張っていた凧の糸がプツンと切れたかのように、床に就くことが多くなった。

やがて1968年、彼女は38歳という若さで、永遠に還らぬ人となった。直接的には子宮がんであったが、長い間のストレスが、彼女の全身をぼろぼろにしていたようである。

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彼女は臨終の間際に、最後の力を振り絞って小さな紙片に数行の文字を書き付けた。それは、それまで夫にも子供にも決して語ることのなかった、自分の故郷の住所と家族の名前だった。「日本石川県江沼郡×××」。

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1981年、ずっと政子を想いつづけてきたジンドウも病没し、ジンドウの亡骸はこの地の風習に従って、政子の亡骸と合葬された。

その後レンワンは、日本に帰った政子の親族の消息を求めて奔走した。母の死後、ジンドウは、彼女の故郷への想いを叶えてあげなければ、あの世に行っても顔向けができないと常々口にしていたからである。

けっきょくレンワンは、北京の日本領事館に行って情報を求めたが、そこでわかったことは、美代子がすでに1989年、“中国残留孤児”として日本へ帰国したということだけであった。母が残した住所には何度も手紙を送ったが、いまなお返事はない。(了)

以上が、崔レンワンから得られた情報のすべてです。第一に私の中国語能力の不足、そして時間も十分でなかったことから、おおまかな流れしか書き記すことができなかったことをおことわりしておきます。

これまでも“残留孤児”という言葉は多く耳にしてきましたが、こういうかたちで中国に留まった“残留女性”が少なからずいたことを、あらためて知らされました。

日本語を使うことはもちろん、故郷や親族のことを話題にすることすらはばかられて異国に逝った無名の女性たち。その中のひとり、谷川政子さんが書いた10センチ四方の小さな紙切れを、レンワンはいまも大切に持っています。

今から60数年前、中国大陸に渡った谷川政子という一女性が、自らの決して長くはなかった人生を、誰かに知って欲しい、という痛切な思いが、わずか数行の文字の間から痛いほどに伝わって私の心を打ちました。

国策に翻弄されて幼くして“満州”に渡った彼女にとって、故郷とは、祖国とは、そして家族とはいったい何だったのでしょうか?   (2005-12-10)

*崔レンワンと会ったのは2005年で、それ以降は会うことはありませんでしたが、その後、2012年頃にはたびたび三交を訪問して、樊さんという一人暮らしのおばあさんの家によく行きました。樊さんは政子さんには何度も会ったことがあり、他にも、同じヤオトンで暮らしたことがあるという女性にも会いました。彼女たちが口を揃えたのは、小学校の教師をしていた崔さんはみんなから信頼され、政子さんも先生のオクサンとして、生活に特に困ることはなかったし、みんなからも慕われていた。とてもきれいな人だった、ということでした。

レンワンも、「両親はとても仲が良くて、言い争っている姿を一度も見たことはない」と記憶していました。崔さんは亡くなるまでずっと「遺骨(の一部)を故国に還してあげたい」といっていたそうで、元々とても優しい人だったようです。過酷な環境だったとはいえ、せめてひとつだけ心癒されることは、政子さんは夫や子供たちにずっと愛されながら、波乱の生涯を終えたように思うことです。

*臨県に2人いた、と聞いていたのですが、どうやらもう一人の方は臨県ではなく、文水という、省都太原との中間に位置する町に暮らしていたようです。ここは武則天生誕の地として有名です。私は2018年、中国を離れる直前に行ったことがありますが、その人の消息を訪ねるという気持ちはすでにありませんでした。それでも試みに出会った何人かの高齢者に、そんな噂を聞いたことがあるかと訊ねてみたのですが、いずれもそっけない返事でした。文水は太原に近く、日本軍との激しい戦闘もあって、‶反日感情″の強い地域だといわれています。おそらくは、その残留日本人女性は、自らが日本人であるということを口にすることなく、彼の地でひっそりと生涯を終えられたのではないかと思っています。            (2021‐11‐20)                   

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