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九曲黄河第一鎮

九曲黄河第一鎮(曲がりくねった黄河の最初の村)

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中国山西省中部、黄河とその支流湫水河の合流点に、L字型に開けた磧口(チーコウ)鎮は、明朝末から、内蒙古・甘粛・青海などの中西部の物資を、北京・天津方面に移送するための、中継貿易地として栄えた村です。対岸は陝西省です。

その存在が知られていたのはもっとずっと古く、すでに戦国時代に趙の国がその軍事的重要性に注目し、元の時代になってからは、軍事戦略要地として整備された地です。以降、国内の商業交易の発達とともに、しだいに商業的価値がとって替わり、清朝末に最盛期を迎えました。

当時は一日に100艘の商船が出入りし、穀類・塩・油・薬材・布などを商う店舗が300以上も軒を並べ、荷揚げ労働者が2000余人、運送用のロバ・ラクダが1000頭以上繋がれていました。

日中は馬車が路上に途切れることなく、夜は酒食を商う紅灯が消えることなく、“九曲黄河第一鎮”と称えられて繁栄を誇ったと、郷土史に残されています。

今も、村の中央をL字型に走る街道には石畳が敷かれ、両側に明清時代に造られた店舗や四合院の邸宅、寺などが並んで、当時の繁栄をよく物語っています。

ところが、現在磧口が位置する臨県(*県は行政単位、ほぼ日本の郡にあたる)は、「国家級貧困県」に指定されているのです。50年代に鉄道が整備されてからは、その役目を陸運に譲り、また新中国建国による国家統制経済が、磧口の商業的地位を奪って、繁栄からは次第に取り残されていったのです。
                           (2005-06-08)

村おこし
歴史的使命を終え、人々から忘れ去られて久しかった磧口に再び光をあてたのは、この地を偶然訪れた呉冠中という著名な画家だったそうです。彼が絶賛したおかげで、その後画家や写真家などがたびたび訪れるようになり、磧口は、その歴史的・観光的価値を見出すことになったのです。

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そこで行政は、2001年に、磧口と近隣のいくつかの村を山西省第一番目の「旅游扶貧試験区」に指定し、官民一体となって、“観光による村おこし”に力を入れているのです。

私が最初に磧口を訪れたのは一昨年の10月ですが、2年の間にも村はいろいろなところで小さな変化をとげていました。一艘しかなかった遊覧船が2艘に増え、YAMAHAのモーターボートも3艘繋いでありました。新しい民宿が2軒と、食堂も1軒できていました。小さな旅行社が店を開け、タバコや飲み物、アイスクリームなどを商う売店の数が増え、前は無料だったトイレが有料に変わっていました。

そして、村の北部にある古い店舗が現在改修中で、8月には新しいホテルに生まれ変わる予定です。かつて隆盛をきわめた船着場も、歴史資料にそっていずれ再現されるそうです。

ある村人は、「ここには貧乏人は絶対に来ないよ。お金も教養もあって、高学歴の人ばかりさ」と笑っていましたが、都会からはすでに失われてしまった風景や風俗が人々の郷愁をさそい、素朴な人情を求めて、太原や北京、上海からも旅行客がやってきているのです。

先回来たときに知り合った劉シーインは、中学を卒業してすでにガイドの仕事を始め、なにやら忙しそうにしていました。日本語を教えて欲しいと頼まれて北京から送った教科書は、まだ一度も開かれることなく、どうやら押し入れの隅にしまいこまれたままに終わりそうです。

私たち旅行者は、「この美しい村が、いつまでも静かで、汚れることなく、純朴なままであってほしい」と願うものですが、他に産業が育ちようがない過酷な自然条件の中で、観光という資源を大切に使いながら、みんなが少しづつ豊かになっていけばいいと、私は思っています。   (2005-06-09)

我又来了!(また来たよ!)
「我又来了!」。6月8日午後、磧口に到着しました。
北京から省都太原まで高速バスで7時間、太原で乗り換えて離石まで4時間、そこでまた乗り換えて、村まで3時間の行程です。もっとも最後の3時間というのは、距離にしたら50キロに満たないのですが、村人たちの需要にまんべんなく答えるために、わずか数十軒の小さな集落をもあっちに行ったり、こっちに寄ったり、新たな客を拾うためにまたまた出発点に舞い戻ったりと、とても複雑な経路をとるために、たっぷりと時間がかかるのです。

どこでも乗り降り自由なので料金もはっきりせず、バス代を値切る人、自分は乗らずに巨大な荷物だけどんどん積み込む人、かなり乗ってから「金がない」と降りる人、走ってる窓から子供におしっこさせるお母さんといろいろです。

中国のバスは、大都市部の市内バスを除いては、ほとんどが個人経営ですから、運転手と車掌の方も自分たちの都合を最優先させます。「すぐ出発するから」といいつつ、採算性の成立まで1時間くらい待たされるのはフツーですが、途中でスイカ買ったりカボチャもらったりするためにも、乗客は理不尽に待たされたりします。もちろん、たばこ吸い放題ゴミ捨て放題、ときには痰も吐き放題で、果てしなく広がる黄土高原のど真ん中を、黄色い砂塵をまきあげながら爆走するのです。                                           (2005-06-10)

黄河賓館の人々
村の北の端、黄河に面して、「ヤオトン」というこの地方独特の石造建築様式からなるホテルがあって、そこが私がこれからしばらくお世話になる黄河賓館です。

ここに泊まるのは4度目なので、オーナー夫妻とはもう旧知の仲ですが、3人の従業員はみな入れ替わっていました。

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コックの陳サンバオ(中央)は、男の子が生まれるまではと、国策に逆らって3人の子持ちになり、「学校にやるのがたいへんだよ」とぼやいている40歳。近くの村から自転車で通っています。

馬イェンメイ(左から2人目)は、ここでしばらく働いてお金をためて、コンピューターの学校に行きたいといっている17歳。今はお母さんが入院中で心を痛めています。

劉ホンリィ(左端)は、身長の半分が足という、スタイル抜群の16歳。中学を卒業したばかりです。若いこのふたりは、標準語が話せますが、他の人々の言葉は、私はほとんど1割ほどしか聞き取ることができません。

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このホテルを取り仕切っているのは、なんといっても女主人の劉ジェンアイ。私は毎朝、拡声器のように中庭に響き渡る彼女の大音声で目が覚めます。お金の計算と客対応とちょっとした雑用以外はまったくやりません。

法的には夫、実質「長工」(作男)の陳ヨウフウ(右端)は、買出しから料理、あとかたずけ、洗濯、雑用と、とにかくいつもこまねずみのように働いています。ただし、ちょっとでもお金に関わることを聞くと、「それはジェンアイに聞いてくれ」。女が強い中国では、珍しくない夫婦形態ではあるようです。

そしてもうひとり、いえ一匹、私の部屋に同居人が住みついていることがわかりました。老鼠(ネズミ)です。ホンリィは「それはきっと松鼠(リス)だよ」というのですが、リスの尻尾は地面を這いません。今のところは子ネズミですが、私が日本から持ってきた「永谷園のふりかけ」やら「グリコのカレールー」やら、舶来食品をかじって、みるみるうちにジェンアイのようなりっぱな体型に成長してしまうのではないかと、私は今、とても気になっているのです。                                                                         (2005-06-11)

ヤオトン
「ヤオトン」というのは、この地方独特の建築様式で、酷暑厳寒の気候条件に合わせて、さまざまな工夫がなされています。いろいろな様式があるようですが、主流は黄土層の崖にかまぼこ型の横穴を掘って、内部を突き固めて作ったものです。

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重層式になっているものは、1階部分の屋根が2階の庭、2階の屋根が3階の庭になっています。平地にあるものは石を積み重ねて同じ構造に造ります。入り口以外は土と石で固められているため、熱遮断率は非常に高く、夏涼しく冬は暖かいという利点がありますが、最大の欠点は、入り口にしか明り取りの窓がないので、昼間でも薄暗く、風通しが悪いということです。

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室内には、「カン」という5、6人は寝られそうな大きなベッドがあり(つまり居間の扱い)、その横に炊事用のかまどがくっついていて、その火がカンを暖める仕組みになっています(張芸謀の映画でおなじみのアレ。夏の炊事場は外)。他には整理ダンスにする箱と大きな水がめ、そして必ずといっていいほど、足ふみ式のミシンがあります。きっとお嫁に来るときの必需品なのでしょう。

部屋の大きさというのは、だいたいどのヤオトンも同じで、ひとつかふたつのヤオトンに一家族が住み、親子親戚などがひと繋がりのヤオトンに住んで、それを一区画として門を構えているヤオトンも多く見られます。また、たくさんのヤオトンを一家族で使っている大邸宅もあります。

一見どのヤオトンも同じに見えますが、明り取り窓の木枠の飾りが違ったり、入り口に垂らす布をパッチワークで飾ったりして、それぞれ個性を出しています。

ところで、磧口はこれから1ヶ月が、1年で一番暑いときだそうです。部屋の中は涼しいのですが、一歩外に出ると、まったく焼けたトタン屋根の上を歩いているようなもの。実際、中庭まで石畳が敷きつめられた家が多いので、石の上で目玉焼きくらいは簡単にできてしまいそうです。体温より高い温度の熱風が、小型の火炎放射器のごとく私の身体に襲いかかってくると、火傷をするのではないかと、思わず身構えてしまうほどです。

私はすでに北京で40℃というのを経験しているのですが、どうもそんなものではなさそうだ。。。と思って、きのう午後3時頃、温度計を窓の外に立てかけてみました。

なんとっ!石の照り返しがあるとはいえ、メモリは一気に行き着けるところまで駆け上って、50℃を超えたのです。

ところが、部屋の中はいつ計っても23℃で一定。その差30℃。これはもう合理性を超えているとしかいいようがありません。おかげで私は到着早々に風邪をひき、なかなか治りませんでした。外出はおろか、中庭に出るのもひかえ、フリースのジャケットを着込んで、ひたすらこの過酷な自然条件に、身体の方がなじんでくれることを祈り続けているのです。  (2005-06-13)

中国ネット事情
私がここに来る前に一番心配だったのは、はたしてインターネットに接続できるだろうか?ということでした。なにしろこの村には、(ほぼ毎日停電する)電気はあるものの、水道があるのはごく一部で、燃料は石炭や枯れ枝の類、ときには黄河の畔で上流から流れてくる小枝を拾い集めてる人たちの姿も見かける村です。ただし、黄河賓館には電話があるので、きっと繋がるだろうと思っていました。

というのも、中国のネット事情というのは、“妙に”進んでいるところがあって、これまではどこへ行ってもテレカ1枚で簡単に接続できたのです。プロバイダー契約というのは必要ありません。テレカの裏に書いてある16桁の数字と4桁のパスワードをPCに入力するだけですぐ使えるのです。国際電話も同じカードでかかります。どこの家で電話を借りても料金は自分持ちなので、気楽に借りることができます。しかも、額面100元のものが、正規取扱店のまん前で商売しているおばちゃんたちから買うと、半額くらいにディスカウントされるのです。

さっそく黄河賓館の電話を借りてやってみたのですが、あっけないくらい簡単に繋がってしまいました。ところが、問題が2つあったのです。

とにかくものすごく時間がかかって、メールを1つ送るだけで20分くらいはかかってしまうのです。しかも重いものはほとんど開くことができません。
それ以上に困ったのは、思えば当然のことながら、どれだけ説明しても、ジェンアイがインターネットというものを理解してくれなかったことです。プリペイドのテレカだから、黄河賓館にはいっさい請求は来ないといくらいっても信じてもらえず、国際電話をかけているのではないかと、気になって気になって、私が電話を借りている間中、私の傍から決して離れようとはしなかったのです。                    (2005-06-14)

ワンバ
さて、どうやって繋ごうか?携帯という手もあるけれど、電話代が高そうだし、片道3時間かけて離石まで行くのはいくらなんでも遠すぎると思案していたら、ホンリィが、磧口にもワンバができたよというのです。

ワンバというのはネットカフェのことですが、パソコンが並んでいるだけで、他のサービスはいっさいありません。中国はまだまだ個人でパソコンを所有している人は少ないので、どこに行ってもワンバは大繁盛。そして、えっ?こんな町にも?とびっくりするほど、どこに行ってもあります。

実は北京で一昨年、ワンバで火災が発生してたくさんの人が死んでから、がぜん取締りが厳しくなったのですが、地方都市に行くと、今も薄暗い地下室に、粗大ゴミ置き場から拾ってきたようなパソコンがびっしりと詰め込まれている、怪しげなワンバをよく見かけます。そこはもっぱら24時間営業のゲームセンターと化していて、ネットに接続できないところすらあるのです。

で、磧口のワンバはというと、おなじみの「98」ではなくて「2000」が搭載された、比較的きれいなパソコンが10台並んでいました。ところが、yahoo.co.jp に繋ごうとするとブロックがかかっているのです。何度やってみても、「青少年に悪影響を与えるサイトなので繋いではいけない」という警告が出てしまうのです。民間の団体が自主的に規制しているのだと注意書きも出ていましたが、有害ポルノと同じ扱いです。(ちなみに、北京ではこんなことはありませんでした)

ここの老板(ラオバン=マネージャー)は、先ごろの反日デモのことなどまったく知らず、あれこれ“荒業”を駆使して何とか繋ごうと努力してくれましたが、けっきょくアクセスできませんでした。そこで私は、自分のPCを持ち込むので、ランだけ貸してくれないかと交渉してみたら、あっさりOKが出たのです。今は私専用の小さな机を用意してくれて、1時間1元(≒14円)の特別料金で、バックに流れる日本の歌を聞きながら(どうも老板が好きらしい)、自由に使っています。

ところで、他のお客さんはというと、やっぱりゲームで遊んでいる子供がほとんどです。老板もちょっと後ろめたいところがあるようで、いつもドアは締め切り、入り口には看板もなにもありません。しかし、薄暗くてボロボロの廃屋に近い建物ですが、もとは清朝時代に建てられた由緒ある立派な文化財らしいのです。

「何時に閉めるの?」と聞いたら、「イヤ、ずっとやってる。閉めることはない」というのですが、「何時に開けるの?」と聞いてみたら、「10時」だそうです。                      (2005-06-15)

*今から15年以上前に書いていたブログです。当時はデータをものすごく縮小しないとアップできなかったので、ボケボケの写真になっていますが、日本に帰れば元データがあるはずなので貼り換えます。ときどき大きめの写真も残っていましたので、それは新しいもので。私自身、久しぶりに5本のUSBの中を探っているので、何が保存されているのかよくわかってないのです。


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