Oral history 取材方法について
最初にまず、私の取材方法について書いておきたいと思います。私が暮らしていたのは、山西省臨県(県はほぼ日本の郡にあたる。私がいた頃の人口約60万人)という地区でしたが、老人たちの話す「臨県語」というのは、中国の中でも特殊といわれる言語で、私にはまったく聞き取ることができません。
*赤い部分が「山西省」。中央部にある「太原市」が山西省の省都。そこからまっすぐ西へ向かって黄河に面する地区が「臨県」、呂梁市というのが「離石」です。
私が取材に訪れる時は、必ず現地の人で標準語が話せて、かつ字も書ける人と一緒に行動しましたが、実は村に残っている人でその条件を満たす人は限られていて、主に、小学校の先生をしている(いた)3人の人にそれぞれ同行をお願いしました。移動はほとんどバイクです。
前もってアポを取ってからの取材ではなく、みな突然の訪問だったので、老人たちも、ある人は5分程度しか話すことがなく、また3日続けて取材した人もいたり、千差万別でした。また、すでに文章化が困難なほど断片的な記憶しか持たない人も少なくなく、複数回取材も含めて、延べにして1000回ほどの取材を行っています。
録音した音声は、同じく現地出身で標準語が理解でき、可能ならばパソコンに入力できる人を探してテープ起こしをしてもらいましたが、主に、北京と西安にいた3人の大学生にお願いしました。
老人たちの記憶は驚くほどに鮮明でしたが、当然のことながら、記憶ミスや事実と矛盾するのではないかと思われる部分など、時には含まれますが、それらはみな訂正を加えず、そのまま書き起こしています。
取材時に金銭で謝礼を払ったことはなく、タバコ2箱と大きく引き伸ばした顔写真を渡していました。これは葬儀用に使うもので、生きている間に用意しておくのが彼らの希望であり、街の写真館で撮ると高額なので喜ばれました。取材の後に、写真を手渡しに、どんなに辺鄙なところでも必ずもう一度老人たちの顔を見に行く、というのが村人たちとの交流を深められたひとつの原因にもなったと思っています。
取材した内容に関しては、特に‶衝撃的″な体験を語る、という人はあまり多いとはいえません。中には日本人に命を救けられた人、日本人とマージャンをして大勝した人、日本兵と白兵戦を交えた人、山西省残留日本兵の話をしてくれた人など、興味深いものもありますが、ほとんどの人たちは、日本人が来るとわかれば逃げ隠れてしまうので、実は日本人を見たことがなかったという人も多いのです。いわゆる‶衝撃の体験″を語るべきだった人は、殺されてしまったといっていいのかも知れません。
以下にアップする陳応国老人は、私が2004年に学生たちと共に取材をし、私が当地に転居することを決意させる原因のひとつとなった老人です。西山上というのは、磧口の隣村で、日本軍に全村焼き討ちされたことで臨県の地誌にも記録が残っています。
なお、今後の進め方の参考にしたいので、コメント欄に書きこんでいただけると幸いです。
実は困ったことが‥‥。もともとパソの調子が悪く、起動に時間がかかっていたのですが、これを書いている今日は、30分待っても起動しませんでした。それで強制終了をかけたら何とか戻ったのですが、今後どうなるかわかりません。スマホからプチプチというのは無理。データはすべてUSBの中だし。まったく始まったばかりだというのに、どうしてこう運が悪いのでしょう‥‥(涙)。でもまあ、とにかく始めます。
陳応国老人(82歳)の記憶 西山上
私の母は今いるまさにこの部屋の中で焼き殺された。家の扉や窓も全部焼かれた(*ヤオトンは、土を掘り抜いた住居なので、木部は扉と窓枠のみ)。家が焼かれた時、私は18歳だった。私たちはみな逃げて、母親だけが家にいた。あのとき、私たちの村では全部で十数人が殺された。
日本人がこの村に来た回数は多いが、具体的に何回来たかははっきり覚えていない。7、8回だと思う。最初に来たのは正月の28日だった。この時は覚えている。彼らはしょっちゅうやって来た。しょっちゅう大砲の音が聞こえた。みんな恐ろしがって外の洞窟(*黄土層独特の土の割れ目や洞窟のようなものが至るところにある)の中に隠れた。彼らに捉まるのを恐れた。
私の家はもともと軒に飾り庇もあって、とてもいい家だったが、すべて焼かれた。村中の家が全部焼かれて、とうてい人が住むことはできなくなった。
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