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非常中国!(とっても中国!)

民工ミンゴンバス
10日間ほど陝西省の旅に出ていたのですが、今日は綏徳スイダーという町から磧口チーコウに戻ることにしました。

9時半にホテルを出て、バスターミナルに行くと、ちょうど離石リーシィ行きの小型バスが出るところでした。毎度のことですが、席もないのに車掌は奪うようにして私の荷物をトランクに放り込み、「さぁ乗って、乗って、席はなんとかするから」と、ほとんど無理やりバスに押し込められてしまいました。しかしけっきょく座ることはできず、立ったままあらためて周りを見て気がついたのですが、この時期、春節休暇を終えて、再び都会に戻る民工たちのリターンラッシュだったのです。私以外は全員男、一目でわかる出稼ぎに行くおっさんや若者たちでした。

で、2時間ほど走ったところでウーブーという、黄河に架かる橋の手前で止まりました。しばらくすると向こうから別のバスがやって来て、そのバスにみんな乗り換えてくれというのです。すでに私は何度か経験済みで驚かないのですが、つまり綏徳→離石のバスと、離石→綏徳のバスが、真ん中で乗客をまるごと交換するわけです。そうすれば、それぞれが早く自分の出発点に戻れるから(経営者にとっては)合理的という考え方です。

このときに私は自分の荷物は放っておいて、まずはバスに走り込み、一番いい席を確保しました。民工たちは、バスの屋根にうず高く積み上げられた荷物を受け取るのに手間取っていたのです。

ところが、やれやれようやく座れた、朝も早かったしと、ウトウトし出したところ、柳林リューリンという町でまたバスが止まりました。運転手は、ちょっと電話するだけとか言って降りたのですが、ここでまた先ほどと同じことが繰り返されたのです。このとき民工たちのほとんどは、過ちを繰り返さないためか、自分の荷物をしっかりと抱え込んでいました。

フイをつかれた私は、またしても席を失い、おまけに新しく乗って来た人たちと荷物で立錐の余地もない混みようの中、忍の一字で1時間耐えました。年寄りを敬う、などという麗しい中国の伝統など、何それ?です。

私が中国に来て以来、一番最初に関心を持ったのは、この「民工」(出稼ぎ農民)でした。北京にいたころは、新聞やテレビを見ては、「彼らはいったいどんな思いを抱いて故郷を後にし、どんな土産を抱えて故郷へと急ぐのだろうか?」などと、しんみり思いやったものですが、ここに来て、民工たちと席の奪い合いをするようになるとは、私の中国暮らしも長くなったものです。                        (2006-02-20)

非常中国 

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今朝10時にグオ老師と一緒に林家坪リンジャーピンに向かうバスに乗りましたが、途中で停まってしまいました。外へ出てみると、クレーン車が巨大な塔のようなものを吊り上げていて、よくよく見てみるとそれはロングボディーの車輌でした。交通事故処理の真最中だったのです。フロントがぺしゃんこになった運転席の方は切断されたのか、自然にちぎれてしまったのか、すでに別の車輌に積み込まれていたのですが、運転手も当然運命を共にしたことと思います。

中国に来て以来、交通事故というのは限りなく見ていて、ほんとうに日常茶飯事。日本と違うのは、事故ったその現場から絶対に車を移動させることなく、たいていは当事者同士が激しくやり合うところです。

殴り合いになったら、単なる接触事故が人身事故に発展するのではないかと思うのですが、とにかく路肩に車を寄せるということをしないので、まったくもって大迷惑です。

今日のような大事故の場合、バスはたいてい迂回路を探します。個人経営なのでのんびりと開通を待っている時間が惜しいのです。しかもそのやり方が乱暴というより、もうメチャクチャです。他人の敷地を断りもなく通り抜けるのなんかは当たり前ですが、果たしてバスが通れるのかどうかもわからない細い畑の畦のような道でも強引に突っ込んでいきます。その先どういう状況が予測されるのかはあまり考えずに、困難に直面してからああだこうだと鳩首会談をするのが中国式やり方です。で、そんな頃には当の根本原因はすでに解決されていることが多いのです。

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で、運転手はあちこち迂回路を探したあげく、民家の脇の細い道をみつけました。初めのうちは通れるかどうか思案していたのですが、そのうちにバスが1台やってきました。反対側から迂回路をたどってきたバスです。写真のようにほんとうにギリギリのところをサイドミラーをたたんで、人家のレンガの壁をゴリゴリ破壊して、当然自らも擦過傷を負って、なんとか通り抜けることができました。

それを見ていた、私たちのバスの運転手は、「没問題!」(問題ナシ!)とひとこと叫んだなり、この道に果敢に突っ込んで行ったのです。

「えっ?だって、反対側からもう1台来たらどうなるの?」と誰でもが予測できる(と私は考える)事態が発生したらいったいどうなるんでしょう?
案の定、100mも進まないうちに、反対側から三輪車と乗用車がやってきました。バスの後ろからもミニバンが1台やってきました。ここに来て運転手がそれぞれ降りてきて、棗畑の中で鳩首会談が始まるのです。結局そこでああだこうだ‥‥と30分。「事故処理はもう終わってるだろうなぁ‥‥」とため息をつきながら、林家坪を11時半に出るバスはあきらめて、私たちは砂埃の中で事態の打開を待ちました。

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結局バスは1時間ほど遅れて林家坪に到着しましたが、幸いなことにというか、いつものことというか、私たちが乗り継ぐ予定だったバスは1時間半遅れて来たので、無事それに乗ることができ、予定通り、目的地の招賢ジャオシエンに到着しました。私たちが行こうとしている村は、ここから山道を徒歩で1時間半ほど登った樊家山ファンジャーシャンという村です。この村で小学校の先生をしているジャンシーフォンがグオミンチャオの学生時代の仲間で、そこでしばらく、郭老師は絵を描き、私は純正の黄土高原の風景をのんびり味わうつもりなのです。(2006-03-07)        

つけ届け文化                            私たち3人は校長室(兼宿舎)を占領して毎晩酒を飲んでいるのですが、ゆうべはみんなで大笑いしてしまいました。

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私たちがここに泊まることができるのも、すべて樊家山小学校の校長先生のご好意ですから、私が最初にあいさつをした時に、「中華」というタバコを一箱彼に渡しました。このタバコはとある人からいただいたものなのですが、一箱が40元という、民工の日給に値することを知っていたので、吸わないでしまっておいたものです。

私もまだ吸ったことがないので、そのうちに校長先生が封を切ったら、1本くらいはすすめてくれるだろうとさもしいことを考えていたのですが、2日たっても3日たってもその気配がありません。

で、そのことを郭老師に話したら、「校長先生はあのタバコの封を切らない」というのです。しかし彼は愛煙家で、一日中スパスパやってます。「どうして?」と聞くと、「あれはそもそも一般人が吸うためのものではなくて、上の人への“付け届け”用のタバコなんだ」そうです。だから、次に政府の役人が学校の視察にやってくるときまでとっておいて、そのときにそっと渡すだろうというのです。“付け届け”がタバコ一箱とは、なんとまぁささやかなと思ったものですが、次の郭老師の話には涙が出るほど大笑いしてしまいました。

「マオタイ酒とか超高級な酒があるだろ。ああいった酒はもらった人は自分で飲まないで、上の人への“付け届け”に使い、その人はまた上の人に届け、その人はまたまた上の人に届ける。けっきょくいつまでたっても封が切られることはなくて、時には10年以上もぐるぐるぐるぐる廻ってるのさ」

しかしよく考えてみれば、日本でも歳暮・中元とか、“つけ届け”文化は今も根強く残っているわけだし、私も同じことをやっているのだから(もらいものだとことわったけれど)、他人のことを笑えないはずです。ただ、他人からもらったものを黙ってタライ廻しするというのは、バレたら超カッコ悪いので、日本人にはなかなか“思い切り”がいることではないかと思います。

それにひきかえ、「中華」や「熊猫」(パンダという名のもっと高いタバコ)、高級「マオタイ酒」のような商品が、最初っからそのためにこそ存在しているのだと皆が認知しているのだったら、何も姑息な心情に陥る必要はないわけで、合理的でリサイクル精神に適っていて、堂々と胸張って“付け届け”ればいいことになり、これまた“非常中国”なのかなぁと妙に納得した気分になりました。                    (2006-03-24)

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