見せかけの客観性
暖かかったり寒かったり気温の変化に翻弄されて微妙に体調を崩し流行病にならなかったりしました。皆様はいかがお過ごしでしょうか?
4ヶ月連続で書き続けてきたこの自己表明noteも残すところ今月分のみとなり、長かったような短かったような、正直めんどくさかったような一方で自分の気持ちを不特定多数の人に見てもらえたようで楽しかったような。
漠然とふわふわとした単一ではない絡み合った感情がこみ上げてきたり来なかったりします。
今回のテーマは「社会人になるに当たっての抱負」です。
うわっ!お気持ち表明だ!恥ずかしい!
自分の中身をさらけ出すのってめっちゃ恥ずかしくないですか?
私は恥ずかしいです。
就職活動の時もこの恥ずかしさと自己肯定感による謎の自信過剰で挟まれて羞恥で体がひねり挙げられてました。
閑話休題
本題に移ります。
就職活動の時に感じた違和感
大学生活4年間が終わり、学生という肩書きから社会人という肩書きにジョブチェンジします。
今年の4月から就職活動を通して出会った会社に就職します。
その就職活動の時にグループディスカッションを受ける場合が往々にしてあり、4月から入る企業にもグループディスカッションを含むグループワークの選考を通して入社することになります。
これは就活あるあるだと思うのですが、自分の特性・特技・適性・自分という人間とは何かを考える内にすごく哲学的なことを考える傾向があるのです。
私は元々就活以前より哲学、それも古代ギリシア時代の哲学が好きでそのような話をするのを好んでいました。
同期達はこの時期を境に哲学的な話をするようになって私は歓喜として就職相談に乗っていたのですか、その際に話題に上がった言葉の違和感について今回は皆さんに紹介したいと思います。
皆さんは主観性と客観性という言葉についてしっかりと説明できますか?
先ほど書いたグループディスカッションにおいて良くフィードバックで位t抱くモノに「定量的・定性的」「主観性・客観性」「ロジカルシンキング」などが挙げられます。
これらのワードに共通するモノは「自分自身で感じた素朴な感想と、数値で裏付けされている情報や事実を理解した上できちんと分けて自分の意見を述べよ」、という考え方ということです。
本日はこの「ロジカルシンキング」にかかせない客観性を批判的に考えていこうと思います。
私の意見を述べる前に面白い過去の医療に関してお話ししていきましょう。
武器軟膏
主観性と客観性の話に移る前に、私が
武器軟膏という概念をご存じでしょうか?
武器軟膏治療とは、16~17世紀ごろにヨーロッパの一部で流行って論争を巻き起こした不思議な治療法です。
剣などで体を傷付けられた場合、普通は傷口の方に薬を塗りますが、この治療法ではなんと武器の方に薬を塗るのです。
武器に付着した薬の成分と、人体が共感しあって、傷が早く治るという考え方です。
発展した医学・科学の恩恵にあずかっている我々から見れば、迷信以外の何物でもないのですが、この論争の困ったところが、武器軟膏治療がちゃんと成果を上げていることでした。
・武器軟膏を用いた場合
・用いずに、従来(当時)の治療を行った場合
この2つを同時に行って、効果を比較したのです。
我々の常識から考えれば後者の方がマシのような気がするのですが、結果はなんと前者! 武器軟膏を用いた方が、傷の治りが早かったというから、驚きです。
不思議ですよね。
かくして武器軟膏の有用性は証明されたのでした。
……とはなりません、そこから今の現代医療があるのですから、この治療法の裏にはちゃんと隠された現実があります。
16~17世紀当時は、衛生観念が乏しく、民間療法で馬糞が薬として使われていた時代です。
つまり、当時の正しくない衛生観念に基づき馬糞や泥等を利用し作られた軟膏を治療に使ったことで、傷が化膿し、悪化させることが多かった。むしろ武器軟膏と称して傷そのものにはノータッチ・自己治癒力にゆだねる方が治療が早かったのです。
「対照実験」と呼ばれるまともな実験・観察、今で言う「ロジカル」な方法によって証明された「武器軟膏」は現在否定されるに至っています。
ロジカルに考えていったとしても、否定されることは大いにあるのです。
観察に基づくロジカルな考え方といえばPDCAサイクルがあるのではないでしょうか?観察に基づくロジカルシンキングとして「武器軟膏」を挙げましたが、箇条書きすればPDCAサイクルも、武器軟膏もさして変わりがないように私は感じます。
では、本当のロジカルシンキング、客観性とはどこにあるのでしょうか?
客観性の批判的検討
ただ、仮説は仮説。万能ではない。
それこそ、『武器軟膏』治療のように。
一度や二度の結果で、レッテル貼りをしない。
常に自分の心の中で斜に構え、批判的に物事を見る必要性があるのではないでしょうか?
データの表層だけでなく、なぜそうなったのか深部を読み取る。
深部を深部と信じ込まずに常に問い続ける。
客観性を正解だと断定せず、慢心しない。
私は本当の客観性はないと思っています。
思考し続けた先に「限りなく客観性に近い何か」があるだけだと思うのです。
漠然とロジカルシンキングだー客観性だー、と喚き散らすのではなく、そうしなければならない本質と、そもそも自分が出した結論が本質であるという考え方は傲りである事を忘れずに社会人として生きていきたいです。
こんな私ですが、社会を構成しているの皆さんよろしくお願いします。