秋鮭の季節に
適応障害と診断されたのは、2017年10月のことだった。
34歳会社員、一人暮らし、独身彼氏なし。仕事から離れる必要がある、という診断書だった。それを会社に提出して休職期間が始まり、有給が尽きた頃にも回復の兆しはなく、私はそのまま退職することになる。
えずきに悩まされるようになったのは夏の終わり頃だった。
オフィスが近づくとえずきが始まり、次第にそれは頻繁になった。リモートワークOKの会社だったから、なるべくオフィスに行かず在宅で仕事をするようにした。
その時期、チャット上の私はいつも以上に元気いっぱいだったと思う。笑顔もなく食欲もないゾンビのような現実の自分からはかけ離れた、私というアバターがオンライン上にいた。
そして、次第に家でもえずくようになっていく。
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病院で診断書をもらった直後、私は衝動的に姉にLINEした。自分の家にはもう帰りたくなかった。
普段なら30分程度で着く姉の家なのに、吐き気で何度も途中下車するせいでたどり着くまでに丸々2時間かかってしまったことを覚えている。義兄もその日は早く帰ってきて、幼い姪たちがすっかり寝た後、一部始終を話した。
「しばらくここに住めばいいよ」と言ってもらい、そこからしばらく私は姉一家の家に居候した。
えずきはだいぶおさまったけれど、毎日不安はつのるばかりだった。
残念ながら、誰かが離脱しても会社は回っていく。それが組織というものだ。だけど、私はどうなるのだろう。このままずっと取り残されていくのかもしれない。そこそこ昇進もしていた。それなりにキャリアも重ねてきた。きっとあと少しで違う景色も見えたんだろう。何年もかけて積み上げてきたものは、あっけなく崩れてしまった。
仕事で価値を出している私は、もうどこにもいなかった。趣味を楽しむ私も、気ままに贅沢旅行する私も、好きな場所に住み好きなものに囲まれて暮らす私も、友達と人生の奥深さを語り合う私も、その源泉は仕事を通じて得られていた。私のアイデンティティは根こそぎ崩壊してしまった。
誰かに人生丸ごと引き取ってもらいたかった。だけど、結婚相手もいなかった。かといって、自力で元の場所に戻るのはもう無理だと察していた。自分なんかがここまで来れたことが、何かの間違いだったのかもしれなかった。
そんな鬱々とした気持ちを抱えつつも、姉たちのおかげで日中の大体の時間は忙しかった。当時、2人の姪は、4歳と2歳。私が一緒に遊んで、一緒にお風呂に入り、一緒にごはんを食べる、なぜだかそれだけでとても嬉しいらしかった。
私は姉に料理や洗濯から買い出しまで毎日指示を受け、せわしない日常だった。少しずつ笑えるようにもなっていった。
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ある日、私は姉に秋鮭を買ってくるように言われた。スーパーではなく、徒歩10分ほどのところにある魚屋さん。ちょっと高いが美味しいと評判のお店だという。そうして買ってきた秋鮭の塩焼きがその日の夕飯だった。2人の姪と、姉と私。義兄は仕事だったから4人で囲む食卓で、秋鮭を口にしたとき、美味しくてなぜだか涙が出てきた。
「なっちゃん、なんでないてるの〜?」「なっちゃんはね、おいしくて泣いてるんだって。さ、ふたりも食べてみて」姉がフォローしてくれた。
秋鮭は確かに美味しかった。だけど、何かを心から美味しいと感じられたのは何ヶ月ぶりだったんだろう。愛する人たちと食卓を囲み、美味しいものを食べて、笑っていられる幸せ。それ以上に大切なことって一体どれくらいあるんだろう。
秋鮭を美味しいと思える私は、まぎれもなく私だった。仕事で価値を出せる私はとっくにいなくなっていたけど、秋鮭を美味しいと思う私は確かにそこにいた。ずいぶん前から知っていたはずなのに、いつのまにか私によって忘れ去られていた、本来の私。
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いつかまた本来の私を忘れてしまうときがくるかもしれない。何かに取り憑かれたかのように自分らしさの仮面をかぶってきたことにも気づかずに、あるとき急に呆然とするかもしれない。
だけど、できればそうはなりたくないから、せめて秋鮭の季節には一度くらいこのときのことをふと思い出して、愛する人たちと夕食を囲んで秋鮭の塩焼き美味しいねって笑っていたいと思う。