かるいはおもい、おもいはかるい 前編
「コンビニのバイトを3日でクビになっちゃって、もう自分は誰かに雇われて働くのは無理だと思ったんです。」
教えて欲しい。どうやったらコンビニのバイトを3日でクビになれるのか。
私だったら。そう、3日で「社員にならないか」と誘われるんじゃないかと思う。
香苗は首から下げたIDカードでオフィスのコピー機のロックを解除すると、そう話した昔の友人を不意に思い出していた。一見バイトをクビになるようには見えない、黒いタートルネックを着こなす物静かな男だった。
そうだ、奴が本を出した、と昨夜眠りに着く前に開いたインスタで目にしたのだった。いわゆるインフルエンサーというやつなのだろう。SNS上で既にファンがついていたこともあって、本の売れ行きは好調なのだという。
今日の会議用の資料、全13ページのものを10部。参加者は8名の予定だが何かの時のために2部多く用意する。部長は出席予定ではない会議にひょっこり顔を出したりするのだ。少し紙がもったいないかとも思うが、余った分は事務の山越さんが裏紙として使ってくれるだろう。
「あ。香苗ちゃん、お疲れさまぁ。」
隣の部署で働く同期のより子が給湯室から顔を覗かせる。手には温め直したコンビニの惣菜パン。昼食時に食べ切れなかった分を3時のおやつにするらしい。
香苗はちらりと給湯室の奥に目をやる。電子レンジの扉が開けっぱなし。より子はいつもそうだ。多分このまま閉めることなくデスクに戻ってしまうに違いない。なんでもう一度振り向いて確認するというワンアクションが出来ないんだろう。
「今日の会議の資料?けっこう、おっきい会議なんだってぇ?」
「そう、新商品のコンセプト会議。リーダーと課長のセンス真反対だから時間かかるかも。」
「そっかぁ、それじゃお腹空いちゃうねぇ。これ、半分食べる?」
「大丈夫、ありがと。」
いちいち語尾にハートがつきそうな話し方だ。実際、より子からくるラインは絵文字が多くて読みづらい。ここで終わりでいいだろ、と締めのつもりでスタンプを送っても、意図の読めない可愛いだけのスタンプを送り返してきたりするのでもう少しやりとりをするべきなのかいつも困ってしまう。
会議まであと1時間。より子が熱々のコロッケパンを大事そうに抱えて去っていくのを見送って、香苗は給湯室の電子レンジをパタンと閉める。それから急いで資料のホチキス留めに取り掛かった。
***
会議は思ったより早く終わり、香苗は約束の20時前には会社から4駅離れたところにある小さなスペインバルに着いた。赤く塗られた鉄製の丸テーブルが薄暗い店内にひしめきあっている。夜の海に浮き輪がたくさん浮かんでいるみたいだ。ぎゅう、ぎゅう。
「待ち合わせなので」とお冷をもらい、脚高の椅子に腰掛ける。少し浮いた足先を、ヒールが脱げないように上手くコントロールしながらきゅっと揃える。スマホを取り出し、あてもなくSNSの画面をスクロールする。
カララン。
入り口ドアのベルが上品に音を鳴らす。香苗は振り向かない。犬みたいな女は嫌いだ。
「お待たせ」
ふわりと腰に触れる手に香苗はぞくっと背筋をそらせ、少しだけ驚いた表情を作って振り向く。さっきまで会議室の前方で難しい顔をして腕組みしていた石山が、片眉を上げて微笑んでいる。お冷を持ってきた店員に2人分の黒ビールを注文し、香苗の正面に座る。
「長丁場お疲れ様。」
石山は疲れたような困ったような顔つきで揚げたパスタのつまみをカリカリと齧る。
「石山さんこそお疲れ様。あなたじゃないと課長を説得できなかったよ。全員あなた側なの空気でわかりそうなものなのに、課長も頑固なんだから。」
「いやいや、課長もあれはあれで、若い人間の感覚を知ろうと努力してるのわかるからさ。」
石山のこういうところがチーム内の信頼を得ている理由だ。香苗はそれ以上は口を挟まず、ただ微笑んだり一緒に困った表情を浮かべたりしながら相槌を打つ。
3杯目の黒ビールを飲み終える頃、石山の話は家庭に及んだ。
「あいつ、帰ってきても最近愚痴ばかりなんだ。たまにヒステリックになることもあるから正直キツイよ。でもまあ、今は仕事も大変なのわかるし、俺はとにかく彼女の話を聞くのに徹してる。」
香苗は優しい眼差しを作り石山を見守る。自分なら、こんなに優しく冷静な彼に我慢をさせるようなことはしないのに。
「あ、ごめん。こんな話聞きたくないよね。ちょっと飲み過ぎた。」
香苗への気遣いも忘れない。お互いを思いやることの出来る、私たちは完璧なカップルだ。石山の結婚さえなければ。
つづく。
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