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自分がされてイヤなことはするなって言うじゃない?
某ギター芸人みたいなタイトルになってしまった。
でも大事なタイトルなので覚えておいてね。
子どもの頃から今でもずっと、私は怒られるのがコワイ。
怒られると鼻がツーンとしてきて、涙がこみ上げる。
こんなことで泣いちゃいけない、こんなところで泣いちゃいけないと歯をくいしばって涙を止める。
山田ズーニーさんの文章表現ワークショップを受けた。
私が所属しているコルクラボというコミュニティの合宿での、2日間に渡るワークショップだった。
この文章はワークショップの1日目、自己紹介文を書くというテーマで、5時間にも及ぶワークの最後に書き上げた文章の冒頭部分。
ズーニーさんは表現する上で、とにかく嘘をつかないこと。あなたという氷山の根底の根底にある想い=根本思想はなんなのか、それを掘り起こして言葉とすることを強く伝えてくれた。
自分という人間を知るために、幼少期から振り返る作業があった。
2人1組になって、一方が聞き役、一方が話し役となりズーニーさんが用意した質問に答えていく。まるでカウンセリングを受けているみたいだな、と思ったけれど、この作業の中で思いも寄らぬ発見があった。
幼稚園、小学校、中学校とそれぞれの時代の印象に残っている出来事を聞かれ、私はすべて、咄嗟に「先生に怒られた」エピソードを挙げていた。
楽しい思い出も沢山あったろうに、ぱっと甦ったのは先生達の怒った顔と、その時のきゅうっとする自分の気持ちだった。
子どもの頃、私は優等生だった。
先生にも気に入られるタイプで、滅多に「怒られる」ということはなかった。
その分きっと怒られることに不慣れで、年に数度の「怒られる」という経験が私にとって大きなインパクトとなって残っているのだと思う。
そんなわけで、大人になって子ども達と接する仕事に就いたとき、私は「怒る」ということにとても慎重だった。
私のように、大人になるまで何かトラウマ的なものを引きずる子が出てしまうかもしれない、それだけはしてはいけない、と。
もちろん、子ども達を傷つけるような理不尽な怒り方はしてはいけない。
ただ、いつもなんだか心に引っかかっていることがあった。
私が小さなことで怒られて涙を堪えていたあの頃、クラスのやんちゃな男の子達は、私に対する怒り方の10倍ぐらいの剣幕で先生に怒られても、どう考えても平気そうだった。
どう考えても、彼らに今頃トラウマが残ってるようには思えなかった。
冷静に考えればそれはそうだと思う。
年に1,2度怒られるかどうかの私に対して、彼らは毎日のように悪さをして先生に怒鳴られる。
それがわかっていて悪さを繰り返す彼らにとって、怒られることなんて慣れっこだったろう。いちいち傷つくぐらいなら、そもそもそんなことしない。
ワークショップの話に戻る。
2日目は、「特定の誰かへのメッセージ」を書き上げるワークだった。
まずは、相手の事情はお構いなしに、とにかく自分の言いたいことを書き散らかす。
けれど、もちろんこれだけでは相手に伝わるメッセージとは言えない。
大切なことは何か。
それは「相手の視点に立つこと」だ。
「相手の視点に立つ」「相手の立場になって考えてみる」
とてもよく聞く言葉だ。
文章表現に限らず、人間関係において大切なことだし、子どもの頃から聞かされてきたことじゃないだろうか。
ただ、私はひとつ勘違いをしていた。
「相手の視点」とは、何なのか。
自分の言いたいことを書き散らかした後、今度は伝えたい相手の「過去→現在→未来」を書き出すという時間があった。
もちろん他人のことなので、自分が出会っていない時代のことなんて完璧に知っているわけじゃないし、「未来」に関しては想像でしかない。
ただ、驚くことに、相手の幼少期から今までのこと。つまりは人生をイメージしていく中で、私の相手へのメッセージはどんどんと変わっていった。
こんな幼少期を過ごしたあの人は、きっと私にこんなこと言われても辛いだけじゃないだろうか。あんな口癖のあるあの人に、私が伝えられるのはこんなことじゃないだろうか。
そして私は、その人への手紙を書き上げた。
ワークの最初には想像できなかったような言葉が、メッセージが、私の中から湧き上がっていた。
相手の立場に立とうとするとき、私たちは「自分だったらこう思うから」というやり方をしていないだろうか。
「自分だったらこう言われたらイヤだから相手にも言わない」「自分だったらこういうのが楽しいから皆にもそれをする」
先生に怒られることが死ぬほどイヤな私と、怒られるのがへっちゃらな彼ら。人は本当に、それぞれの歴史と感じ方がある。
「相手の視点に立つ」とは、「自分だったら」ではなく、「あの人だったら」と出来うる限り想像することだ。
「この人は、どんなことが好きでどんなことが嫌なのだろう。ああいうふうに生きてきたこの人だったら、どうなのだろう」
そこまで考えられて初めて、その人に本当に伝えたい言葉が、伝わる言葉が産まれてくる。
今までの私は、とても独りよがりだったな、と思う。
2日目のワークで書き上げた手紙は相手がいることなので載せられないけれど、冒頭の自己紹介文はせっかくなので全文載せてみます。
子どもの頃の経験と、今の自分の活動が繋がっていることに気づいたよ。
子どもの頃から今でもずっと、私は怒られるのがコワイ。
怒られると鼻がツーンとしてきて、涙がこみ上げる。
こんなことで泣いちゃいけない、こんなところで泣いちゃいけないと歯をくいしばって涙を止める。
泣けてくるのはたぶん、悔しいからじゃなくてただ悲しいからだと思う。
怒られるのがコワイのは、たぶん本当は悲しみを見せるのがコワイからだ。
私は自分の悲しみを、なぜかどこかで出してはいけないものだと思ってしまったらしい。
10代の頃、演劇に出会った。
そしてある演技の勉強会に通っていた時、私は自分の中に押し込めてきた悲しみや怒りを、初めて人前に出した。
大勢が見守る中で泣いてわめいて、本当の感情が出たとき、私の顔面や手はビリビリとしびれた。
きっと初めての経験に、身体がビックリしたんだと思う。
日常生活の中で、怒りや悲しみをいつでも素直に表現することはなかなか難しい。日本社会の中では特にそうだ。
でも私は、「演じる」という行為を通すことで、それができることを知っている。
演じること、そして、大好きな踊ることを通して楽しみながら、心の奥にしまっていた皆の感情を、なかったことにせず、出してあげられる場所を、私は作っていきたいと思っている。