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弓道を通して世界の架け橋になった人

現在進行中のプロジェクトで、日本の女性たちにインタビューをしています。その中で、今回お話しをうかがったのは小沼高子(おぬまたかこ)氏。
日本の弓道を世界に広め、全日本弓道具協会の会長も務めた小沼英治(おぬまひではる)先生の長女として、現在はアサヒ弓具工業の会長を務めています。
高子氏の話はプロジェクト本編でご紹介しますが、今回は、先代の小沼英治先生の志に大変感銘を受けたので、忘れないうちに書き記しておきたいと思います。

インタビュー本編はこちら。

https://edwardhallphotography.com/100w#/takako-onuma/

小沼先生は室町時代から続く和弓の流派、日置流雪荷派(へきりゅうせっかは)の第15代目として、旧小沼弓具店あらためアサヒ弓具工業を1947年に引き継ぎました。
戦後、弓は武器であることから、弓道はGHQによって禁止されていたところ、戦地から帰還して生きる意欲を失っている若者たちの精神修行として弓道を許可してほしいと、小沼先生はGHQに交渉し、日本の弓道文化をスポーツとして復活させました。また、同じくGHQからの依頼で竹製のアーチェリー用具を世界で初めて製作し輸出、さらにアメリカからアーチェリーを日本に導入するなど、まさに戦後の弓道界の架け橋となった人です。

上記の内容は、アサヒ弓具工業や全日本弓道具協会のWebサイトを調べると、拾い読むことができますが、今回は長女である高子氏から直接お話をうかがうことで、近しい人しか知り得なかったであろう小沼先生の想いに触れることができました。

小沼先生は代々続く日置流雪荷派の跡取りであったことから、いずれは弓道の道に進むことは幼少期から理解していたものの、学生時代は医師になりたかったそうです。学友たちが医師の道へと進む中、小沼先生は弓道の道へ。
「本当は医者になりたかったんだ」と家族にぽろっと話すこともあったそうです。そのため、自身の子どもたちの自由を尊重し、流派や弓具店を継ぐことを決して強要しなかったそうです。常に謙虚で個人を尊重する態度は、相手が我が子でも各国の重鎮でも、変わることはありませんでした。
自宅にいても、家族は寝巻き姿を見たことがなく、いつもきちんと身なりを整え、足音も立てず、常に静かな物腰でいらっしゃったそうです。

国内外の日本文化を紹介するイベント等にも積極的に参加し、さまざまな国へ弓道を教えに行った小沼先生。各国の政界関係者や経営者、アーティストやスポーツ選手など、小沼先生の名前は広く知れ渡っていました。海外から弓道具を買いにくるお客様を分け隔てなく歓迎し、その日初めて来たお客様を自宅の夕食に招いたり、留学生を自宅に滞在させたり、そんなことも珍しくなかったそうです。

日本文化であり国技でもある弓道の代表者として、弓道の普及に生涯尽力された小沼先生は、その理由を高子氏に話すことがありました。

「弓そのものというよりも、日本人という民族を知ってほしい。日本人がどんな人たちなのか、ちゃんと見てほしい。誤解がなければ、喧嘩にならない。正しくわかり合えれば、もう戦争は起きない」

「国のためになにができるかと考えたとき、自分にできることは弓道しかない。だから弓道を広げることで、日本を、日本人を世界の人々に知ってもらいたい。争いを繰り返さないために」

この言葉を聴いて、わたしは涙が溢れました。日本のため、世界のため、二度と争いを起こさないために、弓道をとおして友好と信頼をつなぐ役割を担い、世界を駆け回った小沼先生。

いまのわたしたちは戦争を知りません。歴史上の事実として、知識としては知っていますが、リアルな経験として実感がない以上、「繰り返してはならない」と人生を賭けて体現できる人はいないのではないでしょうか。世界の遠い国でいまもなお起きている戦争をニュースで観ても、どこか自分とは関係のない遠い世界の出来事だと、心のどこかで他人事のように感じてはいないでしょうか。

日々の小さなことで悩んだり落ち込んだり、それはなんて平和なことでしょうか。大切な人を奪われ、住む場所や食べ物に困り、焼け野原を呆然と眺めたような経験は、わたしたちには想像できません。
人のため、社会のために、強い意思を貫き命を燃やす覚悟。わたし自身も、たとえ小さなことでも、自分以外のなにかのために役に立てることを考え、力を尽くして真剣に生きなければと思いました。
「なにもできない」と思えばそこで終わりです。「わたしはこれをやる」「わたしはこう生きる」と自分で決めて行動すること、すべてはそこから始まるのだと思います。

現在進めているプロジェクトもまた、いつか皆さんの目に触れたときに、なにかを感じ取ってもらうことで、社会に貢献できればうれしいです。


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