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何度でも、言葉をあきらめない

言葉を扱う仕事をしていることもあり、わたしの言葉に対するこだわりや感受性は、たまに自分でもうんざりするほどである。普段はあまり細かいことにこだわらない性格なので、対象が言葉や文字になったとたん豹変する姿に驚く人もいる。

目に入る広告のコピー、看板の注意書き、お店のメニュー。文章を見つけるとつい熟読してしまう。表記や言い回しが気になってしまうし、どういう意図でここをこう書いたのか、これがこうなるまでの経緯は…など、自分ごとのように理解したくなる。

文字だけでなく、会話でも同じ。たとえばインタビューをしているときも、わたしは目の前で話す人の言葉を浴びて、自分の中にインストールする。相手が自分に憑依したような、同一化したような感覚になり、うまく表現できないけれど、「わたし」というフィルターさえ除外して、もうそのまま相手を取り込むような感覚。そこに「わたし」という個人の意思はなくてもいい。ただ受け入れる器になる。

ライターには二種類いると思っていて、「わたし」という個性を最大限に活かして文章を書く主役型ライターと、「わたし」をできるだけ無にして対象のありのままを文章に書く黒子型ライター。わたしは後者であるし、これからも後者でありたいと思う。誰かのため、何かのために文章を書くとき、そこに「わたし」はいなくていいと、いつもそう思っている。わたしは仲介者であり媒体である。

「わたし」を無にするということは、そこになんのフィルターも壁もなく、いったんすべてをそのまま受け入れるということ。

「心に壁を作らない」コミュニケーションは、放たれた言葉を丸ごと受け入れることなので、感動や喜びもまるで本人のように感じられることもあれば、相手の言葉をそのまま信じて傷つくこともあるし、一緒に苦しくなることもある。それでもわたしは、相手の人生を再体験するような、心が一体になれたような瞬間に、生きがいを感じている。

「そんなことよく覚えてるね」「冗談が通じないね」と言われることもある。「そんな話を信じるほうがおかしいよ」とも。なんでも真に受けてしまうから。でも、それがわたしだからしょうがない。真実でも真心でも嘘でも冗談でも、わたしは分け隔てなく、一度すべて信じて受け入れることしかできない。

言葉は放った瞬間に消えてしまうものだけど、届いた言葉は心の中で生き続ける。一方で、人の心は流動的で、意味を残し生き続ける言葉と、いま目の前で変わりゆく心とが、時に剥離していく。言葉は大切で、大切であるからこそ、言葉だけを信じると混乱する。

受け取った言葉に現実が伴わなくなってくると「あのときのあの言葉はなんだったんだろう」と思う。そういうときは、受け取ったはずの言葉を一度すべて忘れて、目の前の現実を見るほうがいいということは、だんだんわかってきた。

ひとつだけ学んだことは、見るべきは、その言葉の先に「誰がいるのか」ということ。その言葉は、わたしのために、わたしに向けて言っているのか。それともその人自身が自分をよく見せるとか、自分を守るために言っているのか。その言葉の「目的」みたいなものを少し考えてみるようになった。

「相手を大切にしようとする心を感じられるか」
これはビジネスでの人間関係で悩んでいたわたしに、経営者の先輩である友人がくれた言葉。この言葉のおかげで、わたしはこれ以上は組むべきではない相手との関係を解消する決断ができた。いま思えば、言葉巧みにいいことばかりを並べられていて、それでもわたしは相手の奥底にあるはずの良心のようなものをずっと信じていた。信じようとしていた。でもその言葉の数々は、すべてその人自身を守るため、わたしを歯車としてコントロールするためだった。その言葉の先に「わたし」はいなかった。友人の言葉のおかげで気づくことができた。

大人になればなるほど、自分を守ることに必死で、都合が悪くなるとごまかしたり、向き合わずに逃げたり、そんな人ばかり。言葉に惑わされたり傷ついたり、そんなことばかり。そんなふうに悲しく思ったこともある。

でもそれ以上に、わたしには「言葉」に救われた経験もたくさんあるし、言葉の大切さを身をもって教えてくれた人もたくさんいる。

これは4年前のポスト。このときの気持ちはいまも変わらない。これからも何度でも、わたしは言葉をあきらめない。どんなときも言葉に向き合い、人に向き合っていきたい。

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