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「普通」って何だろう

 最近、夫婦で「普通」って何だろうね、って話をよくする。少し前までは、「普通」に暮らせることが一番だよね~とかって話していた。多分、「平凡」とか「何でもない日々」みたいなのが幸せだよねってこと。仕事から疲れて帰ってきて、冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッ。適当に作ったおかずなのかアテなのか分からないものをつまみに乾杯する。この日常の光景を続けていくことは、私たち夫婦にとっての「普通」の生活だ。

また、よく我が家に登場する「普通さ~、これはこうしないでしょ」という会話。私がよく使ってしまう口癖。夫が私にとって想像し難い行動をとった時に出てくるワード。・・・でも、その瞬間「普通ってなんや?」ってなる自分がいた。

「普通」って、簡単に使っている言葉だけど、調べたことなんてなかった。

この話には特に結論はない。たぶん、答えなんてないことだと思う。けど、誰かの考える「普通」に出会えたらいいな、なんて思って書いてみる。

まずは、「普通」を検索する。

普通」・・・[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。[副]1 たいてい。通常。一般に。2 (「に」を伴って)俗に、とても。 ※出典:コトバンク


「ごくありふれたもの」「あたりまえ」の、そのさま。

そこに書いてあったのは、私が長い間ずっと固執していたものだった。

中学生の頃、両親が離婚した。高校受験を控えた冬。長女の私は根っからの「年長」気質で、真面目にしっかり生きようというスイッチが生まれた時から付いていた。母から離婚の話を聞かされた時も、「はい、わかりました」とお利口に立ち回り、受験も問題なくクリアした。ただ、いつもと変わりなく「普通」に暮らしていたかった。母と二人の妹と、私の4人の生活がはじまる。人に迷惑をかけず、何事もなく穏便に生きたかった。それが「幸せ」というものなんだろうな、と漠然と考え、そうなるように行動していた。


が、しかし・・・

28歳くらいからだろうか。
この「普通」を手放したくなったのは。

少し話が戻るが、これまでの私は恐らく、私が勝手に決めつけた「普通」をもとに考えた基準に縛られていた。幼少期から20代までの私は、ドクターなんとかの、「私、失敗しないので」の決め台詞を連発するような「間違いのない人生」を送ろうと必死だった。本当は失敗したり、怒られたりしながら、親や家族と相談して決めたりしてみたかった。でも、なんとなくそれをしちゃいけないような気がしていた。ま、それで誰にも迷惑かけなければいいじゃん!とも思うが、私の一番悪いところは この私が考えた「普通」の基準に周りを誘導させ、取り込もうとするところだ。

自分で言うのもなんだけど、探偵のような人間観察力というか推理力があり、ちょっと口が達者だったので、周囲の共感を得る提案をすることも多かった。みんな私の意見に賛同してくれた。これは、私の武器でもあったが、時に凶器にもなっていた。

その一番の被害者は、きっと夫。結局、私が言うことが「なんとなく」正論に聞こえるし、承認しておいた方が良さそうだし・・・元々自分の意見を強く言うことのない夫は、私という存在によってさらに自分で考えることを放棄する夫にならないかと心配になっている。(夫よ、ごめんな。)


話を進めると、私はこの自分基準の「普通」を手放せるように、まずは身近にいる夫の「普通」を探ってみたり、様々な立場や価値観の方と話す機会を作ったり。これまで全くというほど触れていなかった文化や芸術に触れようと努力している。今はありがたいことに、SNSやYouTubeで沢山の考え方に出会える。あと、近くの図書館や美術館に行くのも習慣化してきた。

私は今、これまでの人生で一番「普通」じゃない。

長く住んできた地元・大阪を離れ、転職し、8か月で退職した。これまでの私の「普通」なら選ばないレール。きっと、相当な気持ちの変化がない限り、このままDINKS(あえて子どもを作らない夫婦)でいるだろう。このあたりの話は、また別の機会に改めてすることとして・・・今は、今の私が一番『自分らしい』と思える自分なので、これがまた私の「普通」になっていくのが楽しみで仕方ない。他の誰かが私を見て「普通じゃない」と思ったとしても、そのほうが私は心から楽しいと言える。変人だと言われてもいい。

32歳、遅れてやってきた人生の反抗期。

きっとこれは、長く続くだろう。





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山形奈都子|Room stylist
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